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高知の面白情報・今昔・夜景・等々

高知城国宝化運動 土佐の歴史 高知の夜景、面白、巨木・滝・四季の様子などを画像で紹介

間違えて有料道路に行く車続出のインター

高知南国道路高知インター付近を五台山よりジオラマ風画像と動画で
高知駅方面に行くには ここを左に降りる、そのまま行くと高知高速道高知インター料金所に行く。
21-03-01南国道路高知インター

👇ちょっと引いて一番手前が南国バイパス・一番前方が高速の高知インターへ 右に旧サンピア
21-03-01南国道路高知インター付近

👇12秒のジオラマ風動画

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カンタロウ(シーボルトミミズ)

カンタロウ(シーボルトミミズ)高見山登山道にて、ネットで一匹¥700-と言うのを見たことがある。
最大体長40㎝ばーになる ウィキペデアによると日本最大のミミズで南の方の山間部に生息する
筆山~高見山にかけて道際を掘り返して探しているのを見かける。ウナギの餌にするらしい
子供の時 体の中はどうなっちゅーかと裂いたら 中身はほとんど土やった記憶がある。
21-03-02かんたろーミミズ
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令和3年3月2日高知市に虹が出た!

皿ケ峰・通称高見山山頂から見ると、比島方面に虹が出た
21-03-02虹

今回は残念ながらくっきりとした半円の虹ではなかった。
21-03-02虹3
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昭和時代から平成の時代にあった八田沈下橋

清流仁淀川に長さ約300mの八田沈下橋(八田⇔土佐市天崎)は残念ながら残されなかった。
筆者はこの沈下橋は昭和40年頃から5年間天崎で父の経営する炭酸カルシュームの製品を3輪
トラックで高知港等に運ぶため毎日何往復もした覚えがある。乗用車同士が行き違い出来ん為
渡る前に遥か前方の車を確認して渡る必要があり、いっつも神経を使った覚えがあるがです。
 笑い話になりますけんどトラック同士が橋の上で向き合い、互いにバックせず、しわい運ちゃんに
なると新聞を広げ読む、対抗して負けじと弁当を食べだす始末じゃったです。
大雨の後は何度も車、人が流され亡くなり、その為に橋の袂にお地蔵さんを祀っちょります。
21-02-28八田沈下橋

👇同じ場所から写した八田沈下橋跡の仁淀川 前方に平成6年完成した八天大橋が見える
沈下橋を残すと言う方法は取らず新しい橋が出来てその後取り壊された。残っていれば
県内一の長さの沈下橋として観光等に役立っていたと思うが、残念ながら後の祭り。
20-02-24八天大橋

地図の中心付近八天大橋南にあった 八田沈下橋

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優秀だった高知県の水力発電と近代産業

明治42年県営としては日本初の平山発電所を開設し、製紙、製材、製糸、製氷、セメント等近代産業が生まれ四国一の活況を呈していた。平山発電所開設に多大な功績があったのは初代土佐史談会会長の清水源井氏、高知城杉の段に碑があり詳細は後日アップ予定です。
21-02-24高知県発電電力量

👇昭和26年から昭和63年までの高知県発電電力量。やがて時代の流れで火力発電所・原子力発電所が出来、現在は半分以上県外の火力発電等からの供給に頼っている。 表は土佐史談254号 高知の戦後の電源開発より
四国 高知の発電量

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紅葉橋付近を高見山(皿ケ峰)から見た!

紅葉橋は昔雁切橋と呼ばれた橋で、藩政時代は鏡川のこのあたりを雁切り川とも呼び
雁切り河原は処刑場でもあったし吉田東洋が暗殺され首を晒された河原でもあった。
②21-01-29紅葉橋付近

👇望遠で撮った。 洲になったあたりが雁切り河原とみられる。前方が郭中堰 そのまた向こうが自動車学校
①21-02-19雁切り橋

👇大きくS字に蛇行した鏡川
③21-02-19紅葉橋付近

👇昭和15年雁切り橋  寺田正写真より おそらく南岸の土手から西を撮った写真とみられる。
昭和15年雁切り橋寺田正写真より


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菅原高視邸が高見町に あったと言うのは本当か?

西暦901年1月25日菅原道真公が太宰府に左遷されると嫡子右少辨高視朝臣もまた土佐権守として
京都を逐われ土佐国潮江に居住したと言われているが、約30年後 土佐日記の紀貫之が国司として来
た時も土佐国府は南国市比江であった。通勤するにはあまりにも遠い。ましてこの時代は潮江と大津
付近は海である。船で行くには港があった筈。それならば小字名に(津)等が残るはず。
それと第一に土佐権守としての屋敷にしては、あまりにも狭い屋敷跡。推測すると別邸かも??
21-02-17菅原高視邸跡

👇屋敷跡は筆山トンネル東交差点南のマンションを西に入る
②12-09菅原高見邸跡入り口

👇山に上がる道を左に進む
③20-12-09菅原入り口

👇屋敷跡と言われる場所の下に説明板があった。
④20-12-09菅原高見邸跡説明

👇菅原高視邸跡碑
⑤21-02-17菅原高視邸跡碑

👇屋敷跡の上に お墓もあるが、この当時の墓は土饅頭がお墓であり、墓石としてはこの時代まだない
と分かっている。土佐に5年間居て帰京し38歳で病死しているし墓石は新しい。
このことは長宗我部地検帳研究第一人者でもあるA氏が以前から唱えている。
⑥12-09菅原高見墓所




キリストにしても父親は居らずマリア様が馬小屋で産んだ、と言うのが通説でもあり、深く追求することでもない。







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神風特攻隊より酷い作戦が高知でも計画されていた。

昭和20年日本が敗戦色濃くなり米軍の日本上陸を前にして考えられ仁井田に作った飛行場とは?
高知海軍航空隊第二飛行場1

👇米軍が写した航空写真・現在の仁井田のビニールハウスあたりに急ごしらえで作った
高知海軍航空隊第二飛行場が、はっきり写っている。なぜ1830mもの長い滑走路が必要
だったか?
21-02-14仁井田飛行場

👇現在の仁井田付近を大平山の西・愛宕山から写した画像。飛行場だった場所はビニールハウスになっている。
21-02-14仁井田を愛宕山から

以上土佐史談265号作戦及び戦術レベルで見る仁井田飛行場と窪川秘密飛行場の役割(その一)
前田祐司氏著を参考にアップしております。詳細の論文は土佐史談会又はオーテピアにて見ることが
できます。

👇人間爆弾と言われた、桜花のイラスト 桜花は自力で飛び立てず また大型の爆撃機に吊るされて
飛び立つのも1830mもの長い滑走路が無いと飛び立てなかった。その後本土上陸に近づいた米軍の
近くまで行き 切り離され推力800キロの火薬ロケットにより最高時速648キロで飛行し 一直線に
敵艦をとの計画だったが実際は敵艦迄飛べず成果を上げれなかった。
Japanese_Ohka_rocket_plane3.jpg

(特別攻撃機「桜花」:時事ドットコムより) 自爆攻撃機。重さ1200キロの徹甲弾を機首に埋め込み 敵機が追いつくことのできない高速で飛行し、搭乗員を乗せたまま敵艦に体当たりするという単純な 戦術を構想していた。






 
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高知県立高知西高等学校をたいようひろばから見た

高知の町を見下ろす烏帽子山近くのたいようひろば展望所から西高校を見た。
21-01-31たいようひろばより西高校2

21-01-31たいようひろばより西高校


高知県立西高等学校は変わります
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海上自衛隊潜水艦事故で高知新港沖に停泊

令和3年2月8日足摺岬沖で海上自衛隊潜水艦そうりゅうが民間船と衝突した為、高知新港に調査の為停泊とのこと、運動がてら仁井田の大平山に登って望遠で撮った。向かって右が進行方向でセイル・プレーンと言う翼のようなものが折れ曲がっちょります。
21-02-09潜水艦事故

👇左から巡視船とさ 多用途支援艦げんかいと事故の潜水艦 手前が高知新港
21-02-09事故の潜水艦とげんかいと巡視船とさ

👇多用途支援艦げんかい
21-02-09多用途支援艦げんかい

👇大平山から見た高知新港東の前浜、浜改田、赤岡方面。天気が良いと室戸、足摺が見える。
21-02-09前浜

👇高知新港の東とビニールハウス
21-02-09高知新港

👇大平山の三角点とシータン 後方下に高知医療センター
20-02-09大平山の三角点とシータン

👇動画


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