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高知の面白情報・今昔・夜景・等々

高知城国宝化運動 土佐の歴史 高知の夜景、面白、巨木・滝・四季の様子などを画像で紹介

土佐の本気投工法は美しい

追手門の屋根、もちろん天守でも見られる土佐の本気投(ほんきなげ)工法の屋根は美しい!
本気投工法は美しい

天守1階説明パネルには土佐独特の本気投工法とあるが、現存12天守を見ると、他にも軒隅が
持ち上がった天守がある。又県内唯一の国宝建造物でもある大豊町の豊楽寺の杮葺きの屋根は
一般に言われる軒反りと言われて紹介されている。大豊町の豊楽寺の画像
本気投工法

追手門のつくり
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高知城の梅が咲いた

高知城梅の段を黒鉄門から見下ろすと ピンク色の梅が咲いたのが見えた。
20-01-23梅の段

上の画像の反対側 梅の段から黒鉄門を撮った
20-01-23より
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鏡川 令和2年1月23日の夕焼け

高知市柳原橋から鏡川に映る夕焼けを撮った
20-01-23夕焼け2

20-01-23夕焼け


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宮中に絶大な権力を持った田中光顕邸跡は佐川町にあった。

武市瑞山の土佐勤王党に属し尊攘運動に参加,1867年には上京して中岡慎太郎の陸援隊に加入。維新後,岩倉使節団に随行して渡欧,のち元老院議官・警視総監・学習院長などを歴任。1898年宮内大臣となり,以後11年間宮中に勢力を振るった。
20-01-19田中邸跡


20-01-19田中公園


20-01-19田中公園説明板

44秒の動画
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海水と淡水が出会う場所とシラスウナギ漁

仁淀川河口で撮った冬の風物詩とも言えるシラスウナギ漁のテント
20-01-12仁淀川河口2


20-01-12仁淀川河口


20-01-12仁淀川河口1


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ジョン万と一緒に 船出した筆之丞・重助・五右衛門の3 兄弟の墓

1841年㋀5日土佐の宇佐浦からジョン万と船出した筆之丞・重助・五右衛門の3兄弟の墓がここ土佐市宇佐町にある
20-01-14漁師筆之丞0

右端は祖先の墓で真ん中が筆之丞 左端が五右衛門で そのまた左に墓石として見えないが重助(ハワイで亡くなった)の空墓
20-01-14漁師筆之丞重助五右衛門兄弟の墓

この場所がわかりづらく土佐史談会理事の青野氏が案内してくれた、彼はジョン万の研究者でジョン万以外の4人がハワイでどう過ごしたかと現地に行き、すべて追跡し調べ上げている。アメリカ本土には都合20回行き、唯一鳥島のみ行ってないという。
20-01-14漁師筆之丞 青野氏

動画で見たら様子がわかるきね。


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この白い物は なんぜよ??

安芸郡北川村四朗ケ野峠北側 汗谷向山国有林で見た奇妙な光景は杉の苗木に鹿よけのビニール袋を被せたものだった。
20-01-06杉の苗木 (1)

20-01-06杉の苗木3

望遠で撮ったら 白いビニール袋の中に枯れたような色の杉の苗が見えた。鹿にはやられんけんど枯れたらいかんね。
20-01-06杉の苗木2
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吉田東洋の屋敷は現在の帯屋町で約660坪・2.178平方米だった。

現在の帯屋町一丁目トーモンスポーツから東にちょっと行ったあたり、敷地は約660坪(約2200平方米) 
建坪は175坪と上級武士としては余り広くない。石高としては減ったり増えたりし、
板垣退助と石高は余り変わらないが、板垣退助の屋敷は1500坪(現在の高野寺は500坪)あった。
20-01-04吉田東洋邸

右の方に会所と書かれた所が屋敷跡
20-01-04吉田東洋邸0
20-01-04吉田東洋邸1
20-01-04吉田東洋邸3 (2) (1)
20-01-04吉田東洋邸3 (2) (2)
20-01-04吉田東洋邸3 (2) (3)
文久2年(1862)4月8日現在のオーテピアの南東にて帰宅途中 藩主の
ためには公武合体論をとらざるを得なかったので勤王党と対立し、那須信吾らに
よって暗殺されました。享年48。暗殺され首の無い東洋を見て悲観したか妻は13日後 後を
追うように亡くなった。
20-1土佐その風土と史話


以上高知県発行 県民グラフ歴史特集 土佐その風土と史話 執筆及び監修 平尾道雄 より 抜粋
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板垣退助生誕地の大橋通り電停

とさでん交通 大橋通電停に大きく書かれた板垣退助・描いたのは西原理恵子
20-01-03大橋通り電停


20-01-03大橋通り電停2

鳥頭の城 – 漫画家 西原理恵子 公式サイト

板垣会 NPO法人 のホームページ
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退助と言う名前の由来!

土佐藩上士の生まれ板垣退助の幼名は猪之助だが、それがなんで退助と言う名前に?

板垣猪之助

板垣退助の玄孫の高岡功太郎氏が管理運営する 板垣退助先生顕彰会
HPの中で 命名の由来の説明によると、

退助の幼名・猪之助(いのすけ)は、乾和三(山内備後)の前名「猪助(いのすけ)」
からあやかって命名されたもので、乾和三の「猪助」の「猪」の字は、山内猪右
衛門と名乗っていた当時の山内一豊公から、和三が「猪」の字を賜ったことに
よるもの。「猪」は、「猪突猛進」、「猪武者」などと言われ、武士に好まれた動物であった。

しかし退助は「猪之助」の名の通り、腕っぷし強そうな相手でも怖いもの知らずで、
猪突猛進に喧嘩をしたりと腕白に育ち過ぎたせいで、謹慎処分を受けることしばしば。
ついに藩主公から「猪突猛進に突き進む「猪之助」ではなく、一歩、退いたぐらいを心
掛けよ」と「退助(たいすけ)」と言う名を賜ったとか。 後藤象二郎(幼名は「保弥太
(やすやた)」)とは竹馬の友で、お互い「いのす」、「やす」と呼びあっていた。

一般社団法人 板垣退助先生顕彰会のページ

玄孫の高岡功太郎氏が編纂し出版した 板垣精神
19-12-31板垣精神

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