仁淀川大橋がレインボーに光った!

2017.01.19 (Thu)
ダブルになった仁淀川大橋は国道56号線にかかり橋の下 川原に行くと夕日が橋桁を照らした。
仁淀川大橋下から2

↓橋の真下に行くとダブルになった仁淀川大橋の前方に はげ山展望公園が見える。
仁淀川大橋下から
はげ山展望公園

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高知城周辺の藩政時代の様子

2017.01.17 (Tue)
高知城の南の堀は現在奥行き約12m 江戸時代は約21m 12間あった。。
幕末深尾人邸など現在の県庁と緑地公園には馬屋と262mもの馬場と鉄砲倉があり
西南隅には表御殿と中奥御殿があり 城外の一番近い南の屋敷には家老の深尾家 五藤家が見える

現在の高知城歴史博物館から東 ひろめ市場まで約150mあるものの
山内下総邸と深尾弘人邸の二つの屋敷しかない 広大な屋敷と言うのがわかる。
絵地図は土佐史談会 吉松氏の父 吉松靖容氏が書いたのを写させて頂きました

↓上の絵図の全体図 江の口川が北の堀でスベリ山まで蛇行しているのがわかる、年代は幕末頃。
17-01-17高知城絵図


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いの町加茂山から仁淀川をいの町を土佐市を

2017.01.16 (Mon)
2017年1月15日日本中大寒波にも関わらず仁淀川を見下ろす加茂山からは快適な景色、、眼下に いの町
17-01-15加茂山0

↓八天大橋と前方に土佐市高岡の町並みも見えた。
17-01-15加茂山1

↓反対側いの大橋の東 天神山から加茂山を以前撮った画像 手前に伊野中 
加茂山を天神山から






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土佐藩がこの日を境に倒幕に大きく舵を切った!

2017.01.14 (Sat)
600人出発

↓ 明治天皇の勅旨を伝える御沙汰書 高知県にとって維新期の最重要文書のひとつ、
土佐史談 表紙解説
慶応四年一月十一日、讃州高松藩・稼洲松山藩同幕府直轄領川之井の追討を命じた
明治天皇の勅旨を伝える御沙汰書。詔書・勅害ではない。宛先は土佐少将山内豊範。
同日に追討を命じられたのは福山藩が対象の広島藩と、備中松山藩が対象の岡山藩を
合わせた三藩だった。菊章旗が下ったのも同日 土佐藩はこの日を期に正面から討幕へ
切り替わった。高知県にとっては維新期の最重要文書のひとつ。
    奉書紙 切紙 個人蔵
高松・松山・川之井追討御沙汰書1

↓現在も門のみ残る至道館入り口の門、、ここから板垣退助を筆頭に戊辰戦争へと突き進んだ。
到道館門
土佐藩で迅衝隊の編制。総督に深尾丹波、大隊司令乾退助 一大隊凡そ六百名、兵員、
軍夫を加えた総勢一千四十五人。服装は伊賀袴に陣羽織といういでたちであった。
慶応四年正月十三日セツ時(午後四時)、土佐を出動、十四日本山村泊。このとき、
土佐藩より向地の中国地方へ出ていた探偵秋沢清吉が馬立本陣に着き、早速に
飛脚を本営に出して、監察官が速やかに馬立本陣へ来て事を議せん事を乞うことを
伝える。 即夜にして、谷守部が馬立に向い、正月十六日暁に馬立
本陣に着く。清吉は上国及び中国の情況を説いて天下の事
既に定まると説く。長州のみならず備前までが帰順して出
兵している。我等が弛々せぱ彼等は必ず兵を四国に向ける
であろう。速やかに、土佐が松山、高松を討って平定せね
ばならんと言う。時に乾退助等皆来る。
十六日、馬立本陣に宿泊して論議す。未だ論議つくせず
本陣に滞留して幡重隊の到着を待って午後になり川之江に
至るも猶衆議粉々。十八日、勅害を待つが来ない。乾退助は、
「事既にここに到るも衆議決せず。社稜を如何にせん。他日妄挙
の責あれば我等二三輩死あるのみ。死を社程の篇にす快事ならず
や」といきまき、総督遂にこれを許す。差使、乾三四郎を丸亀に遣わし、
高松追討を告知する。長岡謙吉これに随行する。十八日夕刻五ッ時(午後八時)、
兵を川之江八幡社前に整えて夜行する。勅命の正使未着。だが退助の決死的、
悲壮の言に高松征討の談、統一されて、全軍進撃の気勢大いに揚る。直ちに
川之江接収交渉が始まる,,,,
以上土佐史談 笹ケ峰越え 石川満著より 抜粋

板垣会NPO法人板垣会
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膏取り騒動とは??

2017.01.12 (Thu)
明治4年土佐の山間では まだまだ現在の様な教養を持つまで
至らず 流言飛語に惑わされ考えられんようなことを信ずる時代
膏取り騒動とは

明治四年暮れに発生した膏取り騒動発端は他県にさきがけて
創設した近代的医療機関の吸江病院に雇われた外国人医師と
備品の鉄製ベッドが民衆の恐怖を喚起した。「この度政府が
藩主を追い出し県の邪な職員が異民族の医師に日本人を売渡し
鉄灸(病院のベッドのこと)に乗せて下から火で炎り、膏
(あぶら)をとって彼らの滋養に供させる」との噂が乱れ飛び
総勢一千人の大一揆となる、、、、
土佐史談231号(文明をめぐる官と民の葛藤)松田裕之氏著



膏取り騒動は、徴兵令施行のため各戸について年令を調べ、家に
調査番号をはりつけたりしたので、不安に思ったその時「外国人が
来て吸江病院の鉄製の寝台の上で若者の生血を取るのだ」というデ
マが飛んだので、混乱を起した。この時県参事林有造は出兵をさけ
自ら鎮撫の先頭に立って池川の主謀者竹本長十郎外五名を捕え斬首、
土佐郡森郷の山中陣馬は事のならないのを察して自殺したので県の
役人の説得に従って無事に拾収された。津野山方面ではその噂は流
れたが、新政を歓迎するリーダーがいたので事無きを得たのである。

土佐史談182号 市町村制百年記念明治の土佐特集号
(発足前後の東津野) 上田茂敏氏著


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越知町横畠東の集落を対岸の宮地から見た!

2017.01.10 (Tue)
仁淀川が大きく蛇行する内側の山沿い越知町横畠東は対岸の宮地から見たらすごい!
16-01-09越知町横畠東

↓右端に横畠橋が見える、
越知町333

八里塚
最初写した向かいの横畠東を登ると八里塚と言う展望の良い場所は高知の江の口番所から八里とのこと この道は旧松山街道と呼ばれ土佐と伊予を結ぶ重要な道で脱藩の志士も命がけで駆け抜けた道。
16-12-25横畠から対岸の宮地

越知町横畠東の場所

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明治15年発行停止処分され新聞の葬式があった。

2017.01.09 (Mon)
新聞の葬式には本町高知新聞を出棺した棺は5000人に送られ、五台山で火葬にされた。
新聞の葬式3
新聞の葬式

新聞の葬式2
「新聞の葬式」というのは、「新聞係例」を盾にとった、政府官憲による厳しい言論弾圧の中で、
『高知新聞』は発刊以来停刊処分を受けること既に五回、遂に、明治十五年七月十四日には
発行禁止すなわち「死刑」に処せられてしまい前代未聞の椿事、新聞の葬式なるものが同月
十六日に盛大に執り行なわれた件を指す。

姉妹紙『土陽新聞』も停刊中であったので、そのまた姉妹新聞『高知自由新聞』は、同月十五
日の広告欄に黒枠付きで「五回死ヲ決シテ未夕死セズ終二六回一一至ツテ漸ク死芙年三百
又二十三ニテ命ヲ知ル命ナル哉天命蒋夕那遥一一在ルカ看官自ラ撰罵明治十五年七月十

四日午後九時高知新聞愛友高知自由新聞社白三千六百余菖ノ同胞諸君」という文面の『高
知新聞』の死亡広告を載せている・同月十六日の紙上には、哀悼の社説と同日午後一時より
の新聞葬執行の告知広告を載せ、同月十八日の「雑報」欄は新聞葬の参列者五千人の盛況
ぶりを詳細に報じている。この『高知自由新聞』も一週間後の同月二十一日に同じく発行禁止..  

以上土佐史談176号自由民権運動 三大事件建白運動100年記念号 田岡嶺雲と自由民権運動 
高橋正氏著より


板垣会NPO法人板垣会

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ヘンロ道 塚地峠

2017.01.07 (Sat)
土佐市高岡~宇佐町に越えるヘンロ道は塚地峠、、、
17-01-03塚地峠

この遍路道は明治の終わりに中島からの道が出来、
平成にはトンネルが出来たので生活道には使用しなくなった
17-01-03へんろ道
塚地峠の分岐に戦前まで茶店があったとのこと
今は宇佐の町と浦の内湾の入口が見える展望所のみ
17-01-03塚地峠から

17-01-03宇佐大橋
17-01-はげ山展望公園案内図

塚地峠から約30分登るとはげ山展望公園の大峠展望所に行ける

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国宝化のノボリ、

2017.01.06 (Fri)
城西館さんに高知城国宝化のノボリを置いて頂てます、
城西観ノボリ
城西館藤本社長さんも 高知城を国宝にする県民の集いの中心メンバーです。
城西館ノボリ2


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2017年1月4日鏡川の夕焼け

2017.01.04 (Wed)
鏡川 水面の手前で筋になって見えるのは昭和52年取り壊された沈下橋の跡
17-01-04鏡川夕焼け

↓ くの字に大きく曲がる飛行機雲
17-01-04鏡川夕焼け1

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