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高知の面白情報・今昔・夜景・等々

高知城国宝化運動 土佐の歴史 高知の夜景、面白、巨木・滝・四季の様子などを画像で紹介

5つも違う名前の城 鴻ノ森の城跡

高知市福井の北 標高299m鴻ノ森の山頂にある中世の山城、本山氏の高知平野進
出の拠点となった朝倉城の支城に当たる。
 永禄四年(1561年)頃、長宗我部元親は福留隼人・中島大和らに当城を攻撃させた。
当城は天然の要害であったが、福留隼人は城中への水路を断ちついに城主鴻ノ森出
雲を自刃に追い込み、落城させたと言う。水路を断たれた後、城中では白米を馬の背
に注いで水が豊富にあると見せかけた白米伝説がある。  
        (高知県の地名)平凡社・日本歴史地名大系40より
①22-02-05高ノ森城
なんでそんなに名前があるか?? 円行寺城と白米城は別として他の3つはすべて
コウノモリジョウと読める。現代は漢字の読みは同じでもどの字で書くか?を大切に
している。今だと(山崎のさきは大ですか?立つですか?)と確認があるが、昔は
書く人がそれなりの字を当てはめて書くことが多かった。と筆者は考える。

👇2003年頃は山と野原の会が特に頂上に説明板とかベンチ木々の伐採を行っていた。
が近年は出来なくなり、残念ながら案内板も無くなり、木々が伸び眺望も悪くなっている。
22-02-06高の森城の由来

👇2003年に行った時の頂上 高知市のあちこちから山頂が平な山が見えた。
②高の森頂上03年

👇2022年2月の状態,, 登って来る途中にあった、ミカン狩りもかなり前からやってない。
①22-02-03高ノ森山頂

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津野町 長沢の滝は ながそうの滝と呼ばれていた。

津野町のハート形の滝口で有名な長沢の滝の名前の由来
筆者は1998年頃から県内の滝を廻りはじめちょります。2010年頃まで滝の手前の看板に
長沢(ながそう)の滝と書いてあり不思議に思うちょりましたが土佐史談 土佐の水特集の
論文を見ていたら・・  
(長沢)は地元では(ながさわ)と読まず(ながそう)と発音する。
(津野山異聞録)の著者中越穂太郎先生は(滝の上に住んでいた長谷の人たちは
この下に神聖な滝がある。この洗濯の汚水を流そうか、流すまいか、思案にくれたが、
その処置に困って(流そう。ながそう)となったものだ。と言っておられた。
土佐史談194号 名瀑(長沢の滝)上田茂敏氏著より
ながそうの滝

👇滝口は10年以上前はもっとハート型をしていた。滝口の上方に遊歩道があり
数段の滝が連続してあるが、現在は道が荒れて滑落する恐れがあり行くのは無理。
それにハート形の滝口等の夢を壊すかもしれないが、すぐ上流に砂防ダムがあり
プール状に貯まった水が落ちる構造になっている。滝口の岩を横から見ると薄く
現在は二つの穴があるが、将来は崩れて一つになるかも知れんです。
18-06-02長沢の滝口

👇
18-06-02長沢の滝

👇滝の前にあるのは滝見橋
18-06-02長沢の滝全景

津野町と梼原町の丁度境にあり2021年春には上流にフォレストアドベンチャー・高知が出来ている。
長沢の滝の場所

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潮江天満宮楼門の鳳凰翔舞の大彫刻は日本一の大きさ(らしい)

高知市民ならほぼ行った事があり見たこともある潮江天満宮の楼門北側の
鳳凰は日本一の大きさと思われる。と言うのは、正確なデーターが無い為で
羽根を広げた大きさを地面で測ると横幅は約4.5mもあり、尾っぽの羽を入れる
と8mを超える。 1853年(嘉永6年)に制作したのは名匠島村安孝(三四郎)で
高知城内の欄間・美良布神社の建築等にも関わった人物。

土佐史談273号今井章博氏の(土佐歴史余話・潮江天満宮にまつわるエトセトラ)
によると 明治32年の暴風で楼門は倒壊し社殿向かいのにあった楼門を明治
35年に南北向きの現在の位置に建替えた。又木彫りの鳳凰は経年劣化で傷みが
目立ち平成6年から翌年3月まで変色しないようにガラスを粉にした人工顔料を
用い修復したと書かれちょります。尚画像の縦に見えるのはハト等ががとまり
その糞で汚れるのを防ぐためのもの。
21-03-09楼門鳳凰

👇北側から見た楼門全景・昔筆者は約200m東に住んでいたため、昭和20年代
から昭和30年代にかけて、丁度この見える位置で紙芝居を見たり、ベーゴマ等々
毎日遊んだ場所ながです。
天満宮楼門

👇楼門の左右の格子の中には菅原道真公 菅原高視公の木彫り像があり
学問の神様にお参りする人が拝んでいるのが度々見られるがです。
天満宮楼門2

👇楼門の東西南北にある島村安孝(三四郎)作の彫刻
21-03-09島村三四郎彫刻

👇島村安孝(三四郎)とは 土佐史談会発行 土佐の墓より
土佐の墓 島村三四郎

👇動画 潮江天満宮の楼門は 高知市指定 有形文化財



土佐の昔の面白話 NO-66

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優秀だった高知県の水力発電と近代産業

明治42年県営としては日本初の平山発電所を開設し、製紙、製材、製糸、製氷、セメント等近代産業が生まれ四国一の活況を呈していた。平山発電所開設に多大な功績があったのは初代土佐史談会会長の清水源井氏、高知城杉の段に碑があり詳細は後日アップ予定です。
21-02-24高知県発電電力量

👇昭和26年から昭和63年までの高知県発電電力量。やがて時代の流れで火力発電所・原子力発電所が出来、現在は半分以上県外の火力発電等からの供給に頼っている。 表は土佐史談254号 高知の戦後の電源開発より
四国 高知の発電量

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浦戸湾の景観は四国一位

昭和9年四国八景の投票が行われ浦戸湾が堂々の一位を獲得!
浦戸湾

👇戦前 高知新聞の記事を土佐史談47号に新聞雑見として紹介
47号四国八景で浦戸湾が一位
昭和2年には室戸岬が日本の海岸で日本一に選ばれた。
この頃は組織だって投票し何が何でも一番にする組織票が行われた結果かもしれんです。
昭和2年には室戸岬が日本一に選ばれた。

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高知城追手門2階にあった学校の話

明治7年自由民権運動の立志学舎に対抗し佐々木高行・谷干城らと気脈を
通じた保守派・原茂胤(伝平)を社長とする静倹社が「静倹学舎」として発足
明治7年追手門2階の学校
『佐々木高行日記・保古飛呂比』第34巻に、明治7年4月20日、原茂胤(伝平)
が佐々木高行に宛てた書簡が載っており、それには「連輩周旋の変則学校、
場所無之、過日来頻りニ周旋の模様ニて、小僕も其儀ニ預り候処、漸追手
御門を拝借ニ相成、追々開校の筈ニ相成居候由」とあります。明治7年の
創設当初は、教員4人、生徒数290人で、もっぱら国学・漢学を教えていま
したが、明治11年(西南戦争の翌年)頃に消滅。
 以上・自由民権運動研究第一人者 土佐史談会副会長公文豪氏よりの情報

20-09-05追手門

追手門2階平面図・ 意外と広く部屋は3部屋
16-10-02追手門2階平面図

追手門桁行断面図
16-10-02

2016年10月土佐史談会講座レジメより
16-10-02高知城土佐史談会講座

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高知城の西にあった中高坂山はこうして消滅した。

百年を超える土佐史談会機関紙 土佐史談268号歴史余話より筆者が抜粋
中高坂山は確かにあった。


20-08中高坂山と葛ケ岡は消滅した

20-08中高坂山と葛ケ岡は消滅した2

20-08中高坂山と葛ケ岡は消滅した3

山内家の御城築城記に書かれていた、土小石を袋等に入れ役人に
渡し 駄賃をもらう様子を天守内に再現したジオラマ
三ノ丸へ土を運ぶ子供

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旗本1万3000石を棒に振り土佐に流された 加賀爪直澄とは?

歌舞伎で有名な幡随院長兵衛誘殺に養子が関係したことで家禄没収、
土佐に流された加賀爪直澄は 大河ドラマにもなった樅ノ木は残った
の中心人物伊達宗光の実子 伊達兵部宗勝の約10m横に眠っている。
双方とも本人が起こした事件ではなく、徳川からのきついお達しにより
その当時遠流の地 と言われた土佐の山内家預かりとなった。
20-05-18加賀爪直澄

土佐史談会発行土佐の墓より
20-05-17加賀爪直澄 (1)


20-05-18加賀爪直澄の墓2

五台山鹿の段下 加賀爪直澄の墓とすんぐに横にある伊達兵部宗勝の墓とその説明の動画

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昭和3年頃 潮江に春野町・平和町があった!

潮江中学の場所は戦前は女子師範があり・町名は春野町であり、梅ケ辻には平和町があった。
20-05-11.jpg


女子師範付近等を造るにあたり 乱暴にも すぐ南の筆山の北東斜面を削り運び、大量に敷き詰めた。
その為えぐられた斜面は大雨になると、時には300m北の筆者の家でも大小の石が落ちる音が聞こえた。
筆山の崩した上には当初 勤皇党の平井収二郎一族の墓があったが落下して後に山手町に移った。

 女子師範学校の中には次兄が通った春野幼稚園があった。地図の右上に平和町、斜めの道路部分に
春野町の字が見える。昭和24年女子師範が後の丸の内の県立女子大に移転するにあたり、幼稚園は
朝倉の高知大学にとのことだったが、園児には遠くその当時の心理学者岡本重雄学長が積極的に
併設を唱え(つまり将来の児童学科を作るという一環で県立幼稚園の前例がないのを私立として女子
大幼稚園として再発足と言うことになった。丁度出来た時、筆者が天神町から この幼稚園に通った。
 
 以前にもアップした?が同時に通った友達には山内家18代当主の次男、県展の生みの親 中村博
画博の長男、野村茂久馬の次男等々居りその後朝倉の高知大学付属小 中と仲良く付き合ったもんです。
20-0505春野町 女子師範

天神橋南付近の地図 右上に戦前の高知市長 川島正件の名前が見える。
昭和20年高知市大空襲で焼け。この場所は昭和24年~42年頃まで筆者が住む。
地図には見えないが、この付近は江戸時代には砂入れと呼ばれ。三差路付近は
菅原道真公の千年祭があり 千年辻と呼ばちょりました。
2005-05天神町付近









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春日局は幼少期 豊臣から逃げて土佐に住んだ?

土佐の歴史は面白い!本能寺の変の後、豊臣家の追手を恐れて光秀の重臣 
斎藤利三の息子と、娘お福(後の春日局)等が土佐の岡豊に逃れ住んだと言う。
 戦前の土佐史談会会長寺石正路氏の著書『南国遺事』の中で、御福等の土
佐に着せし頃(略)岡豊の繁昌は四隣に並なき際なりき想へば彼の八幡の森の
茂き木影や国分の川の清き砂原は実に春日局等が可憐なる童時の遊場なり
しならん但其兄なる三存当時通称土産右衛門(つとうえもん)は(略)岡豊の西
二里朝倉の里に住みしとぞ聞へし」 
 そして、『治代普顕記』( 巻七)の中にある「春日局躍興行之事」には、
「嫡子ハ肥後ヘ下り、肥後守抱置斎藤立本と云二男と娘ハ土陽の長宗我部家
に渡り娘は京都に忍ハセ次男ハ土佐へ下土産右衛門と号て土州朝倉という
所に侍ける」とある。   
え-?筆者の住む朝倉に住んだ?この件だけは史実では無いと土佐史談会
理事 朝倉義景先生(長宗我部地検帖の第一人者)ははっきりと否定されちょります。

 20-04-16春日野局
春日局(かすがのつぼね)と土佐 高知市歴史散歩 広谷喜十郎氏


大奥をつくった春日局。男色好みの家光を女性に目覚めさせた功績はあっぱれ

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