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高知の面白情報・今昔・夜景・等々

高知城国宝化運動 土佐の歴史 高知の夜景、面白、巨木・滝・四季の様子などを画像で紹介

津野町 長沢の滝は ながそうの滝と呼ばれていた。

津野町のハート形の滝口で有名な長沢の滝の名前の由来
筆者は1998年頃から県内の滝を廻りはじめちょります。2010年頃まで滝の手前の看板に
長沢(ながそう)の滝と書いてあり不思議に思うちょりましたが土佐史談 土佐の水特集の
論文を見ていたら・・  
(長沢)は地元では(ながさわ)と読まず(ながそう)と発音する。
(津野山異聞録)の著者中越穂太郎先生は(滝の上に住んでいた長谷の人たちは
この下に神聖な滝がある。この洗濯の汚水を流そうか、流すまいか、思案にくれたが、
その処置に困って(流そう。ながそう)となったものだ。と言っておられた。
土佐史談194号 名瀑(長沢の滝)上田茂敏氏著より
ながそうの滝

👇滝口は10年以上前はもっとハート型をしていた。滝口の上方に遊歩道があり
数段の滝が連続してあるが、現在は道が荒れて滑落する恐れがあり行くのは無理。
それにハート形の滝口等の夢を壊すかもしれないが、すぐ上流に砂防ダムがあり
プール状に貯まった水が落ちる構造になっている。滝口の岩を横から見ると薄く
現在は二つの穴があるが、将来は崩れて一つになるかも知れんです。
18-06-02長沢の滝口

👇
18-06-02長沢の滝

👇滝の前にあるのは滝見橋
18-06-02長沢の滝全景

津野町と梼原町の丁度境にあり2021年春には上流にフォレストアドベンチャー・高知が出来ている。
長沢の滝の場所

潮江天満宮楼門の鳳凰翔舞の大彫刻は日本一の大きさ(らしい)

高知市民ならほぼ行った事があり見たこともある潮江天満宮の楼門北側の
鳳凰は日本一の大きさと思われる。と言うのは、正確なデーターが無い為で
羽根を広げた大きさを地面で測ると横幅は約4.5mもあり、尾っぽの羽を入れる
と8mを超える。 1853年(嘉永6年)に制作したのは名匠島村安孝(三四郎)で
高知城内の欄間・美良布神社の建築等にも関わった人物。

土佐史談273号今井章博氏の(土佐歴史余話・潮江天満宮にまつわるエトセトラ)
によると 明治32年の暴風で楼門は倒壊し社殿向かいのにあった楼門を明治
35年に南北向きの現在の位置に建替えた。又木彫りの鳳凰は経年劣化で傷みが
目立ち平成6年から翌年3月まで変色しないようにガラスを粉にした人工顔料を
用い修復したと書かれちょります。尚画像の縦に見えるのはハト等ががとまり
その糞で汚れるのを防ぐためのもの。
21-03-09楼門鳳凰

👇北側から見た楼門全景・昔筆者は約200m東に住んでいたため、昭和20年代
から昭和30年代にかけて、丁度この見える位置で紙芝居を見たり、ベーゴマ等々
毎日遊んだ場所ながです。
天満宮楼門

👇楼門の左右の格子の中には菅原道真公 菅原高視公の木彫り像があり
学問の神様にお参りする人が拝んでいるのが度々見られるがです。
天満宮楼門2

👇楼門の東西南北にある島村安孝(三四郎)作の彫刻
21-03-09島村三四郎彫刻

👇島村安孝(三四郎)とは 土佐史談会発行 土佐の墓より
土佐の墓 島村三四郎

👇動画 潮江天満宮の楼門は 高知市指定 有形文化財



土佐の昔の面白話 NO-66

優秀だった高知県の水力発電と近代産業

明治42年県営としては日本初の平山発電所を開設し、製紙、製材、製糸、製氷、セメント等近代産業が生まれ四国一の活況を呈していた。平山発電所開設に多大な功績があったのは初代土佐史談会会長の清水源井氏、高知城杉の段に碑があり詳細は後日アップ予定です。
21-02-24高知県発電電力量

👇昭和26年から昭和63年までの高知県発電電力量。やがて時代の流れで火力発電所・原子力発電所が出来、現在は半分以上県外の火力発電等からの供給に頼っている。 表は土佐史談254号 高知の戦後の電源開発より
四国 高知の発電量

高知城追手門2階にあった学校の話

明治7年自由民権運動の立志学舎に対抗し佐々木高行・谷干城らと気脈を
通じた保守派・原茂胤(伝平)を社長とする静倹社が「静倹学舎」として発足
明治7年追手門2階の学校
『佐々木高行日記・保古飛呂比』第34巻に、明治7年4月20日、原茂胤(伝平)
が佐々木高行に宛てた書簡が載っており、それには「連輩周旋の変則学校、
場所無之、過日来頻りニ周旋の模様ニて、小僕も其儀ニ預り候処、漸追手
御門を拝借ニ相成、追々開校の筈ニ相成居候由」とあります。明治7年の
創設当初は、教員4人、生徒数290人で、もっぱら国学・漢学を教えていま
したが、明治11年(西南戦争の翌年)頃に消滅。
 以上・自由民権運動研究第一人者 土佐史談会副会長公文豪氏よりの情報

20-09-05追手門

追手門2階平面図・ 意外と広く部屋は3部屋
16-10-02追手門2階平面図

追手門桁行断面図
16-10-02

2016年10月土佐史談会講座レジメより
16-10-02高知城土佐史談会講座

高知城の西にあった中高坂山はこうして消滅した。

百年を超える土佐史談会機関紙 土佐史談268号歴史余話より筆者が抜粋
中高坂山は確かにあった。


20-08中高坂山と葛ケ岡は消滅した

20-08中高坂山と葛ケ岡は消滅した2

20-08中高坂山と葛ケ岡は消滅した3

山内家の御城築城記に書かれていた、土小石を袋等に入れ役人に
渡し 駄賃をもらう様子を天守内に再現したジオラマ
三ノ丸へ土を運ぶ子供

旗本1万3000石を棒に振り土佐に流された 加賀爪直澄とは?

歌舞伎で有名な幡随院長兵衛誘殺に養子が関係したことで家禄没収、
土佐に流された加賀爪直澄は 大河ドラマにもなった樅ノ木は残った
の中心人物伊達宗光の実子 伊達兵部宗勝の約10m横に眠っている。
双方とも本人が起こした事件ではなく、徳川からのきついお達しにより
その当時遠流の地 と言われた土佐の山内家預かりとなった。
20-05-18加賀爪直澄

土佐史談会発行土佐の墓より
20-05-17加賀爪直澄 (1)


20-05-18加賀爪直澄の墓2

五台山鹿の段下 加賀爪直澄の墓とすんぐに横にある伊達兵部宗勝の墓とその説明の動画

昭和3年頃 潮江に春野町・平和町があった!

潮江中学の場所は戦前は女子師範があり・町名は春野町であり、梅ケ辻には平和町があった。
20-05-11.jpg


女子師範付近等を造るにあたり 乱暴にも すぐ南の筆山の北東斜面を削り運び、大量に敷き詰めた。
その為えぐられた斜面は大雨になると、時には300m北の筆者の家でも大小の石が落ちる音が聞こえた。
筆山の崩した上には当初 勤皇党の平井収二郎一族の墓があったが落下して後に山手町に移った。

 女子師範学校の中には次兄が通った春野幼稚園があった。地図の右上に平和町、斜めの道路部分に
春野町の字が見える。昭和24年女子師範が後の丸の内の県立女子大に移転するにあたり、幼稚園は
朝倉の高知大学にとのことだったが、園児には遠くその当時の心理学者岡本重雄学長が積極的に
併設を唱え(つまり将来の児童学科を作るという一環で県立幼稚園の前例がないのを私立として女子
大幼稚園として再発足と言うことになった。丁度出来た時、筆者が天神町から この幼稚園に通った。
 
 以前にもアップした?が同時に通った友達には山内家18代当主の次男、県展の生みの親 中村博
画博の長男、野村茂久馬の次男等々居りその後朝倉の高知大学付属小 中と仲良く付き合ったもんです。
20-0505春野町 女子師範

天神橋南付近の地図 右上に戦前の高知市長 川島正件の名前が見える。
昭和20年高知市大空襲で焼け。この場所は昭和24年~42年頃まで筆者が住む。
地図には見えないが、この付近は江戸時代には砂入れと呼ばれ。三差路付近は
菅原道真公の千年祭があり 千年辻と呼ばちょりました。
2005-05天神町付近









春日局は幼少期 豊臣から逃げて土佐に住んだ?

土佐の歴史は面白い!本能寺の変の後、豊臣家の追手を恐れて光秀の重臣 
斎藤利三の息子と、娘お福(後の春日局)等が土佐の岡豊に逃れ住んだと言う。
 戦前の土佐史談会会長寺石正路氏の著書『南国遺事』の中で、御福等の土
佐に着せし頃(略)岡豊の繁昌は四隣に並なき際なりき想へば彼の八幡の森の
茂き木影や国分の川の清き砂原は実に春日局等が可憐なる童時の遊場なり
しならん但其兄なる三存当時通称土産右衛門(つとうえもん)は(略)岡豊の西
二里朝倉の里に住みしとぞ聞へし」 
 そして、『治代普顕記』( 巻七)の中にある「春日局躍興行之事」には、
「嫡子ハ肥後ヘ下り、肥後守抱置斎藤立本と云二男と娘ハ土陽の長宗我部家
に渡り娘は京都に忍ハセ次男ハ土佐へ下土産右衛門と号て土州朝倉という
所に侍ける」とある。   
え-?筆者の住む朝倉に住んだ?この件だけは史実では無いと土佐史談会
理事 朝倉義景先生(長宗我部地検帖の第一人者)ははっきりと否定されちょります。

 20-04-16春日野局
春日局(かすがのつぼね)と土佐 高知市歴史散歩 広谷喜十郎氏


大奥をつくった春日局。男色好みの家光を女性に目覚めさせた功績はあっぱれ

龍馬と甲浦東股番所跡

東洋町は土佐と阿波の境にあり番所(関所)が4つもあり陸と海の交通の要所だった。
20-02-29龍馬と東股番所跡
[坂本龍馬が番所で長刀術を披露]
坂本龍馬が江戸で北辰一刀流長刀術免許状を授かっての
帰途、東股番所に立ち寄って長刀術を披露したと伝えられる。
長刀は、幕末期に勤王志士たちの間で大流行した。龍馬は
流行の最先端・長刀術をさっそく披露したのだった。
 以上 東洋町の歴史(幕末維新)HP 原田英祐氏(土佐史談会東部支部長)より引用

20-02-27東股番所跡
[史跡・東股番所跡]
江戸時代、甲浦東股内港の奥に東股番所(関所)があって、
和田家と小南家が代々、番所役人をつとめた。旧土佐街道の
本街道は、山道を登り、宍喰峠が土佐阿波の国境。阿波国に
入ると阿波国側の古目番所(こめばんしょ・関所)があった。
東股番所から古目番所まで徒歩40分ほど。
東 洋 町 の 観 光・ 幕 末 維 新・ 歴 史 編

動画

龍馬は大政奉還の舞台裏にも登場しなかった?

龍馬のことは後藤象二郎が語る維新回顧録の中で、船で竹島に連れて行ったとしか登場しない。土佐の高知の面白話NO-58  
後藤象二郎

維新回顧録として維新経験者の講演が明治末期から大正に掛けて行われ、
維新編纂事務局がありその母体で、史談会・温知会とかが組織され、講演
が開かれ、その速記記録に基づき平尾道雄がまとめたのが、維新回顧録、

板垣退助を筆頭に後藤象二郎が17~25まで当時の高知新聞に掲載。後藤
象二郎の語った談話の最初は(吉田参政暗殺前後)から始まり(長崎出張)
(薩土盟約)(二条城会議1.2)(平和工作ならず)(大阪府知事)(英国公使と

攘夷浪人①②)と語られております。残念ながらほとんど坂本龍馬は登場せ
ず唯一、長崎出張の回顧録で語られた終わりに(船を買って坂本龍馬や岩
崎弥太郎を乗せまた竹島へ出張させて山内土佐守家来何某この島を発見

と言う木票を立てたこともあるが、これは今でも同地にあるかと思っている。
中略、今日の日本は、もはや徳川氏の政権を治めて新しい政府を設けるの
が最善の策だと考えた。政府の役人も、これまでのように徳川の家来に限ら
ず、全国から人物を集めることだ。 以上高知新聞・維新回顧録後藤象二郎伯談話より

土佐史談会事務局に保存されている。このスクラップブックは土佐史談会会員なら
1ケ月間借りれることができます。維新回顧録のタイトルの字は平尾道雄先生が書かれた字。
19-12-24isinnkaigannroku.jpg

平尾道雄とは司馬遼太郎が竜馬がゆく を書く際とかに師と仰いだ人物

龍馬と弥太郎が船で行った竹島とは鹿児島県佐田岬南西、、の地図

オーテピア4階 土佐史談会のホームページ

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