土佐の写真家の元祖 井上俊三、

2017.08.31 (Thu)
ジョン万次郎が日本に写真機を持ち帰り河田小龍が習い・長崎では土佐から行った井上俊三が龍馬を写した。
井上俊三トップ

↓龍馬の有名なガラス写真は近年まで上野彦馬が写したとされ長崎市には二人の石像があるがです。
19長崎市上野彦馬誕生地石像

↓高知県教育委員会が編集した土佐百年のあゆみ/より(昭和43年11月発行)
井上俊三は土佐藩の命を受け写真技術の為長崎に行ったようです。
井上俊三の画像

↓土佐史談会の創始者の一人でもある武市佐市郎が井上俊三から龍馬の
ガラス板差写真を譲り受けその後県立郷土文化会館に武市佐市郎のご子息武市祐吉氏が寄贈されてます。

(土佐史談170号 坂本龍馬誕生150年 特集号より)
武市佐一郎土佐史談より

土佐史談会100年の歩み
土佐史談会のHP

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城西館発行の大正5年高知市内地図、、

2017.08.23 (Wed)
当初潮江橋からはりまや橋方面の電車の線路は附近の商店街の反対で通れず堀詰が交差点,高知駅方面も無し
城西館発行の地図700幅古地図は土佐史談会今井章博氏所有のを使用させて頂きました(部分切取)

↓線路は高知駅までも敷けて無く反面現在の若松町に線路が引かれ終点に遊郭が!
城西館の地図遊郭

↓同じ城西館発行の古地図は現若松町付近の遊郭にはまだ電車の軌道が無い。こちらは城西館藤本社長にコピーで頂いた同じ場所城西館古地図軌道南に無し



↓御免から葛島に線路を引く計画の時 介良を通らず大津を通ったのは介良の村長達が地元の若者が電車で簡単にこの場所の遊郭に来るのを予想し反対、遠回りの大津に通し現在に至る(以前の記事)とでん

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西郷隆盛像も履いている足半(あしなか)と呼ばれる草履

2017.06.20 (Tue)
元親は色々な決まりを作り 禁酒令、冠婚葬祭や衣食住の倹約を命じた。。
足半 草履

↓アマゾンで現在¥4.980で売っている前半分の足半と呼ばれる草履は長草履に比べ走れるし 足場が悪い所でも滑らず姿勢が良くなり健康的、   ただ慣れるのに時間がかかるにかーらんです。
アマゾンで売っている足半草履¥


足半草履の歴史は古く、約1000年前頃の飛鳥時代に生まれ、戦国時代に動きやすさと抜群の安定感、感覚のよさから戦闘用として武士の間で大流行をしたのも うなずける。

他に(長宗我部元親百箇条)の掟の中には慶長2年朝鮮出兵後の留守中の国内支配や家臣の統制の為に、、元親、盛親の名で
・・男が留守の時その家へ座頭(盲目で音楽を奏で按摩をする人)商人、猿使い、諸勧進(寄付を募る人)はもちろん親類の者でも男は一切立ち入ってはならん、もし病気の時は親類一同が揃って行くように、たとい奉行人でも家の中に入らず門の外で話をして用を済ますようにすること。 ただし親兄弟は例外で風紀とりしまりの目的で定めた法令である。

以上土佐史談会大先輩 山本大氏著(高知県の歴史より)
土佐史談会

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第16代高知県知事は浦戸湾で毎日釣り三昧!

2017.04.24 (Mon)
第16代知事は水力発電を計画しその結果高知県は四国一の工業県になった。
宗像政知事

甫喜ヶ峰疎水でも、いわゆる北山からの落差は相当なも
ので、水力発電には最適であった。当時の一六代宗像政知
事はいち早くこれに着目し、四年足らずの任期中に疎水水
利権の買収と県営水力発電所の建設を企画し、明治四二年
(一九○九)一月、県営平山発電所が完成、二○○○馬力
の電力供給を開始した。当時、県営の水力発電所建設は全
国でも画期的なもので、「昔から水で火(灯)をともした
ためしがないのに、これに県費を注ぎこむとは知事の見識
を疑う」と県議会のこぞっての反対に、西南戦争では西郷
軍に加担して生死の境をさまよったという熊本・宗像神社
大宮司の前歴の宗像知事はひるむことなく、明治三九年に
水利組合に対する三万五千円の買収費、それをはるかに上
廻る建設費の予算を通して着工したという(土佐山田町史)。
結果は疏水を通して発電機を廻す水量に一滴の損失もなく、
まさに一挙両得の利益はすでにびわ湖疏水で実証ずみ。宗
像知事の卓見と勇断に関係者は舌を巻いたというが、京都
の北垣知事か坂本理事に研究すればすぐ分かることではあっ
た。 以上 土佐史談229号 京都市のびわ湖疏水と高知人脈
橋田稔氏著 より

土佐史談会土佐史談会

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スリーダイヤの三菱のマークはどんなにして出来たか?

2017.04.18 (Tue)
岩崎弥太郎は明治3年10月17日の日記に板垣と相談して三菱の商標を決めたとのべている。
そしてこの紋様は岩崎家の紋の三蓋菱と山内家の三葉柏の紋を組合わせたものと言われている
以上 高知県の歴史 山本大著(土佐史談会)より 抜粋
スリーダイヤと板垣退助2
なお良く麒麟麦酒の宣伝では(龍馬と深ーい繋がりがあるがやき)との謳い文句だが
確かに龍馬と弥太郎は長崎で海援隊を通じ交流があったので嘘ではないが?
麒麟麦酒の設立は明治21年岩崎弥之助初め9人の日本人が株主として参加発売・

三菱の荘田平五郎の発案で東洋の霊獣“麒麟”をラベルに採用して、1888(明治21)年5月に「キリンビール」を発売しました。

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板垣会
NPO法人板垣会

昭和30年代開発計画の浦戸大橋完成予想図等、、

2017.02.03 (Fri)
現在の浦戸大橋とはかなり形が違う・昭和42年高知県秘書課発行小冊子より、、
浦戸大橋完成想像図s42年発行本
完成した浦戸大橋とはこじゃんと形が違う。
uradooohasi.jpg

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高知での最初の印刷物は河田小龍の高知市全図だった。

2016.12.22 (Thu)
明治11年 高知市街全図と表紙に書かれた折り畳み式の地図、作者は河田小龍。。
明治11年高知市地図 表紙
広げると約1mある。若草色は人家、白い場所が田畑  赤い印は神社又は 寺院 教会
明治11年高知市地図

↓一番下 新田に板垣邸があり 中央の堀川は700トンの船が出入り出来る位広い、
現在の中の島ほど広く無い。河口に二つ島があり 厳島と読める、左上に丸山台
その左の岸沿い若草色の人家が筆者の祖父の家あたり
明治11年鏡川河口付近



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500m四方に学校が7校もあったのは本当ぜよ。

2016.08.04 (Thu)
高知大学朝倉のキャンバス付近に昭和36年頃隣同士で7校もあった事実、、
昭和36年高知大学朝倉キャンバス7校

高知大学と6校

↓北東にあった高知大学教育学部付属中学校、フェンスで囲われちょります、
付属中遠景1953年

↓昭和35年の大学正門、門柱には高知大学、付属中学 付属小学の文字があった筆者の卒業アルバムより。
付属小中校門

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大高坂山と小高坂山の読み方の不思議

2016.07.30 (Sat)
高知城のある大高坂山と小高坂山の読み方の不思議は??
16-07-30大高坂山
土佐史談会の機関紙土佐史談の目次に(大高坂は おおたかさかである)との論文を見つけた 探すと著者は近藤勝(付属中の社会の先生 のちに高知学園短大の学園長でその本を探していると丁度土佐史談会で知り合ったTさんが持っていて読ましてもらったが 残念ながら大高坂の読み方が古来からどうなっているか? 色んな書物を調べ(おおたかさかである)それを一冊の本にしていた(そのことに脱帽)
大高坂は おおたかさかである

読み方の ふりがなよりも自分は大高坂山と小高坂山の間に中高坂山がありそれを崩して高知城の三ノ丸を広げたその事実が知りたい、ちょっと前にアップしたように築城日誌にそのことが載っていたので あとは江戸時代と以前に書かれた地図があれば史実に証拠として載せれるので あちこち探しちょります。

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京都から東京に首都を移す発案は後藤象二郎だった!

2016.07.24 (Sun)
土佐藩の後藤象二郎は明治元年京都から東京に遷都する案を三条実美に進言したと板垣会の第2号会報にて板垣退助が書いてます。尊皇攘夷派公家の中心的存在であった三条実美の母は土佐藩山内家10代当主山内豊策の娘
後藤象二郎遷都の話3

後藤象二郎追悼演説一部

↓ほとんど忘れられちょりました東京芝公園にあった後藤象二郎の銅像(板垣退助の姿も見える)
板垣会2号より後藤象二郎銅像
後藤象二郎は土佐藩の藩主の代理、 藩行政の最高責任者で尊皇派の坂本龍馬と会談し、坂本龍馬の
提案とされる船中八策に基づき、容堂による将軍・徳川慶喜への大政奉還を進言する。

↓(会報)板垣会 第2号表紙は明治40年頃の板垣家の人々
2016-07-19 09-01-39_0076
特定非営利法人板垣会は年会費2.000円で入会大募集中です。  smskjny@yahoo.co.jp

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