土佐藩がこの日を境に倒幕に大きく舵を切った!

2017.01.14 (Sat)
600人出発

↓ 明治天皇の勅旨を伝える御沙汰書 高知県にとって維新期の最重要文書のひとつ、
土佐史談 表紙解説
慶応四年一月十一日、讃州高松藩・稼洲松山藩同幕府直轄領川之井の追討を命じた
明治天皇の勅旨を伝える御沙汰書。詔書・勅害ではない。宛先は土佐少将山内豊範。
同日に追討を命じられたのは福山藩が対象の広島藩と、備中松山藩が対象の岡山藩を
合わせた三藩だった。菊章旗が下ったのも同日 土佐藩はこの日を期に正面から討幕へ
切り替わった。高知県にとっては維新期の最重要文書のひとつ。
    奉書紙 切紙 個人蔵
高松・松山・川之井追討御沙汰書1

↓現在も門のみ残る至道館入り口の門、、ここから板垣退助を筆頭に戊辰戦争へと突き進んだ。
到道館門
土佐藩で迅衝隊の編制。総督に深尾丹波、大隊司令乾退助 一大隊凡そ六百名、兵員、
軍夫を加えた総勢一千四十五人。服装は伊賀袴に陣羽織といういでたちであった。
慶応四年正月十三日セツ時(午後四時)、土佐を出動、十四日本山村泊。このとき、
土佐藩より向地の中国地方へ出ていた探偵秋沢清吉が馬立本陣に着き、早速に
飛脚を本営に出して、監察官が速やかに馬立本陣へ来て事を議せん事を乞うことを
伝える。 即夜にして、谷守部が馬立に向い、正月十六日暁に馬立
本陣に着く。清吉は上国及び中国の情況を説いて天下の事
既に定まると説く。長州のみならず備前までが帰順して出
兵している。我等が弛々せぱ彼等は必ず兵を四国に向ける
であろう。速やかに、土佐が松山、高松を討って平定せね
ばならんと言う。時に乾退助等皆来る。
十六日、馬立本陣に宿泊して論議す。未だ論議つくせず
本陣に滞留して幡重隊の到着を待って午後になり川之江に
至るも猶衆議粉々。十八日、勅害を待つが来ない。乾退助は、
「事既にここに到るも衆議決せず。社稜を如何にせん。他日妄挙
の責あれば我等二三輩死あるのみ。死を社程の篇にす快事ならず
や」といきまき、総督遂にこれを許す。差使、乾三四郎を丸亀に遣わし、
高松追討を告知する。長岡謙吉これに随行する。十八日夕刻五ッ時(午後八時)、
兵を川之江八幡社前に整えて夜行する。勅命の正使未着。だが退助の決死的、
悲壮の言に高松征討の談、統一されて、全軍進撃の気勢大いに揚る。直ちに
川之江接収交渉が始まる,,,,
以上土佐史談 笹ケ峰越え 石川満著より 抜粋

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明治15年発行停止処分され新聞の葬式があった。

2017.01.09 (Mon)
新聞の葬式には本町高知新聞を出棺した棺は5000人に送られ、五台山で火葬にされた。
新聞の葬式3
新聞の葬式

新聞の葬式2
「新聞の葬式」というのは、「新聞係例」を盾にとった、政府官憲による厳しい言論弾圧の中で、
『高知新聞』は発刊以来停刊処分を受けること既に五回、遂に、明治十五年七月十四日には
発行禁止すなわち「死刑」に処せられてしまい前代未聞の椿事、新聞の葬式なるものが同月
十六日に盛大に執り行なわれた件を指す。

姉妹紙『土陽新聞』も停刊中であったので、そのまた姉妹新聞『高知自由新聞』は、同月十五
日の広告欄に黒枠付きで「五回死ヲ決シテ未夕死セズ終二六回一一至ツテ漸ク死芙年三百
又二十三ニテ命ヲ知ル命ナル哉天命蒋夕那遥一一在ルカ看官自ラ撰罵明治十五年七月十

四日午後九時高知新聞愛友高知自由新聞社白三千六百余菖ノ同胞諸君」という文面の『高
知新聞』の死亡広告を載せている・同月十六日の紙上には、哀悼の社説と同日午後一時より
の新聞葬執行の告知広告を載せ、同月十八日の「雑報」欄は新聞葬の参列者五千人の盛況
ぶりを詳細に報じている。この『高知自由新聞』も一週間後の同月二十一日に同じく発行禁止..  

以上土佐史談176号自由民権運動 三大事件建白運動100年記念号 田岡嶺雲と自由民権運動 
高橋正氏著より


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自由も演歌も土佐の山間から!

2016.12.25 (Sun)
演歌の起源とも言われる民権数え歌は自由民権運動の歌の一つ。。
自由も演歌も土佐から

演歌とは



こじゃんと判り良い本 土佐史談会副会長 公文豪氏著
土佐の自由民権と入門書

↓公文豪先生が編集し出版された土佐の自由民権運動日録の中に演説中に
警察により解散命令が出された記事!植木枝盛、坂本南海男(直寛)
らと同記事に演説をした筆者の祖父島崎寅弥の名前もありました。
明治15年寅弥演説

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自由の松原と言う名前のバス停の由来、、

2016.12.17 (Sat)
西郷隆盛と西南戦争で戦った谷干城と板垣退助が自由民権運動の構想を練り合い大口論をした場所、、
自由の松原

↓前方に見えるのは浦戸湾 当時五台山から南に海岸沿いに種崎方面に行く道は犬帰りと
呼ばれるばー人が通らん場所、明治時代に、高知の名門と呼ばれる川崎家の別荘があり
民権家は船で対岸から渡り自由民権運動の密談の場所として利用していた。
umetate

動画で映った場所は ほとんど昭和30年代に埋立し出来た木材団地と道


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板垣退助の功績と人物相関図

2016.12.13 (Tue)
板垣退助人物相関図2

近代日本の道を拓いた自由民権運動の最高指導者として有名な板垣退助は 天保8年(1837)4月17日
高知城下中島町の上士の家に生まれ、旧姓は乾、無形と号した。討幕運動に参加、戊辰戦役の折に
先祖の板垣姓を名乗り、武勲を立てた。 維新後、新政府の参議に列したがやがて下野、明治7年(1874)
1月民選議員設立建白書を左院に提出し帰高。同年4月、高知に立志社を創立して自由民権論を唱えた。
 
明治14年(1881)10月自由党総理に推され、翌春、東海道を遊説の途中、4月6日岐阜中教院で暴漢に
刺された。 血潮に染まりながら板垣の叫んだ言葉は、いつしか(板垣死すとも自由は死せず)の名文句
となり、怒涛の如く全国に伝承され自由を求めて闘う人々を大いに勇気づけた。明治40年(1887)5月

伯爵を授けられたが一代 華族論を唱え、一代限りで拝辞した。以後、内務大臣に任じられること2回、
晩年は政界を隠退し、社会改良運動に専念した。相撲や居合い道などの発展の為にも尽力したが、
大正8年(1919)7月16日83歳で死去した。遺著に(一代華族論)(武士道)(神と人道)(獨論7年)(立国の大本)等がある。
以上特定非営利法人 板垣会HPより、、、板垣会

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自由民権運動に関わる運動をした現高知市にあった民権結社

2016.12.10 (Sat)
自由は土佐の山間より出づ、現在の中央公園にある立志社跡碑
自由は土佐の山間から
明治10年代に、政府批判を武力ではなく言論活動によって行う自由民権運動が
土佐を筆頭に行われ 政治・経済・社会の制度、思想に関する学習活動
読書会、討論会、演説会などを伴い活動しよりました。
16-12-10立志社

↓筆者の祖父が在籍し演説等した現浦戸町にあった修立社あと 土佐の自由民権運動の研究、出版の第一人者公文豪先生に祖父が活動していた頃の新聞、書籍など見つけて頂き今更ながら自由民権運動、祖父の足跡を勉強しよります。
修立社跡
立志社を筆頭に現高知市には8社あった民権結社
民権結社の分布図

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自由民権運動の神様と呼ばれた板垣退助先生帰朝記念碑

2016.10.23 (Sun)
板垣退助が後藤象二郎と明治15年欧州を外遊 翌年帰高 丸山台にて船上の3000人の自民党員の大歓迎を受けたとの説明
板垣退助先生帰朝記念碑文

左に丸山台が見える 
帰朝記念碑2板垣退助は明治15年4月岐阜で遊説中の刺され「板垣死すとも自由は死せず」の有名なセリフが伝わった後同年11月欧州に外遊している。筆者の祖父も17歳の自由党員でその場に居たことが最近判った。

動画はクリックで止まります。


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維新三傑と土佐藩首脳の舞台 開成館跡

2016.10.03 (Mon)
維新三傑の西郷隆盛、大久保利通、木戸孝充と土佐藩の板垣退助、福岡孝弟との薩長土 首脳会談が
明治4年現在の東九反田公園の場所であり、三藩から朝廷へ近衛兵を献上する政策を決定しております。
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長州からは木戸孝充こと桂小五郎が出席
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開成館が出来たのは慶応2年明治3年には寅賓館と改称され外来客を接待する場所になっています。
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明治26年この場所が載っている高知市地図
meiji26nenn.jpg

30秒の動画


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板垣会 会報 第3号

2016.09.18 (Sun)
板垣退助とルイビィトンの詳細を副理事の公文豪氏が書いてます。

板垣会 会報 第3号 PDF
2016-07-19 09-02-35_0077

板垣会 会報 第3号 PDF

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板垣会々報 第2号

2016.08.27 (Sat)
政治だけで無く相撲が好きで相撲を国技とし 雨露しのげ天覧を仰ぐ常設館の国技館の建築、力士の廃業後における養老法等に尽力した退助のことがPDFで読めます。
板垣会 会報 第2号 PDF2016-07-19 09-01-39_0076

板垣会 会報 第2号 PDF

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