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高知の面白情報・今昔・夜景・等々

高知城国宝化運動 土佐の歴史 高知の夜景、面白、巨木・滝・四季の様子などを画像で紹介

初代高知市長一圓氏はすばらしい

板垣退助と同調し自由民権運動・立志社創立の発起人として参加・三大事件建白書を
提出、明治22年初代高知市長に選ばれ前後17年間務めた。消防組織改正、伝染病院設
立、鏡川新月橋架設、高知商工会議所、土佐電気鉄道創設に協力するなど高知市発展の
基礎作りに貢献した。
22-02-27一圓市長碑

👇初代高知市長の説明 民権政社修立社の指導的立場等の説明
22-02-27初代市長説明

👇高知市庁舎正門北東から新庁舎北側に移設された
22-02-27市長碑場所

👇土佐史談会発行土佐の墓より抜粋
土佐の墓より一円正興

👇一圓正興氏が中心だった修立社で16歳ながら弁士をした筆者の祖父の載った自由民権運動日録
土佐自由民権運動と祖父の記事

👇動画も見てよ

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窪川・郷土資料館 古渓城

現在の窪川を造ったのは山内一豊と幼少から親友であり一緒に土佐に入った
巡視共頭役 林伝衛門勝吉と言える。一豊は彼を5.000石持ち窪川家老職と
して任命し、併せて志和浦代官職とした。一豊は一の字と三つ葉柏の家紋を
許し、山内伊賀守一吉と改名させ山内の一門とした(古渓城研修資料より)

その資料 古文書 武具類 食器 民具等を無料(要予約)で見ることが出来ます。
私費で資料館を建設し展示された、ご子孫の林一将氏 088 22 1654に連絡の上) 
 21-08-17古渓城

内部の資料等
②民具館古渓城鎧


③古渓城刀


④民具館古渓城火縄銃

山内家の家紋入りの徳利
⑤民具館古渓城家紋

長さ6m(三軒半槍)もある戦用の槍は突くよりは叩くのが多かったようです。他色んな形状のありました。
⑥民具館古渓城やり

大量の民具も展示されてます。四万十町に贈与をと申し出されるも 町からお断りされたのことです。
窪川の貴重な歴史的資料をこのままにするのは本当に残念なことです。是非再考をお願いしたいものです。
⑦民具館内部

👇江戸時代の窪川
00エドジダイノ窪川

土佐史談会の重鎮でもある、ご子孫の林一将氏  板垣退助の母は林家から出てます。
⓪古渓城 林一将

👇古渓城研修資料
①古渓城研修資料

土佐藩5000石家老職・窪川山内家創業から第五代山内大學勝知江戸にて死去PDF 詳しい

郷土資料民具館古渓城の場所  四万十町四万十町見付665

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板垣退助墓所の標柱杭を設置

アゾノの板垣山墓所に、玄孫でもある高岡功太郎氏が制作したのを設置
高岡功太郎氏は一般社団法人 板垣退助先生顕彰会を運営してます。
今回は約半分の24の標柱杭を設置、乾家(板垣家)のアゾノのお墓は
数が多くせっかくお墓にお参りに来て頂いても解らないとのことで設置
👇板垣家と乾家のいきさつは
甲斐・武田信玄の重臣筆頭・板垣信方(別に駿河守と称す)より数えて
十一代目にあたる乾正成(土佐藩・馬廻役、三百石)の嫡男が板垣退助である。
退助はもと乾姓を名乗り戊辰戦争の時に旧名に復した。
①板垣山墓所の標柱杭

👇高岡功太郎氏
②21-07-15高岡さん2

👇
②②21-07-15高岡さん

👇筆者も木槌に布を巻いて標柱杭打ち込み等を手伝い
③21-07-15板垣山にて

👇高知新聞の取材を受けている高岡氏。
④21-07-15高知新聞

👇板垣家初代の墓等 全体の様子が分かる動画

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西郷隆盛を止めた男・谷干城の像

窪川に生まれ武士として・軍人として・政治家として・教育者として幕末から明治に生きた
谷干城(かんじょう/たてき)の像は戦前昭和8年、本山白雲に造られ戦前までまで窪川に
あったが戦争の為供出され溶かされ、熊本市の像は復元され窪川には無い状態だった。
地元四万十町に像を造ろうと言う声が盛り上がり(志国高知 幕末維新博)推進委員会が
計画し、中心メンバーとして私設郷土資料館古渓城を運営する林一将氏が色々アドバイス
製作は地元海洋堂ホビー館四万十が受け持った。材質はFRP(繊維強化プラスティック)
ブロンズ像でもFRP像にしても途中までの工程は同じで最後に銅にするか、FRPに
するかの違いです。最後の銅にするのとFRPにするのに金額はこじゃんと違うそうです。
数千万円と数百万円の違いにかーるにかーらんです。
①21-07-11谷干城像

👇古民家カフェ 半平の駐車場にあります。
③21-07-11谷干城像

④21-07-11谷干城像説明

左側は像を作る上で中心になり動いて頂いた林一将氏
また私設郷土資料館古渓城を運営する林一将氏はご先祖が掛川から土佐に入り
窪川山内家として一国一城令があるまで古渓城・窪川山内家の城主だった末裔です。
後日戦国時代から伝わった鎧・刀、槍、古文書等々(郷土資料館古渓城)をアップします。
②21-07-11谷干城像

👇動画22秒


高知県四万十町窪川 古民家カフェ駐車場の場所

四万十町が作った谷干城の解説サイト

👇近藤勇の斬首にも関係していた。
【西南戦争で熊本城を死守!】坂本龍馬暗殺犯を追った男・谷干城 | 歴人マガジン

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ようやく出来た!高知市アゾノ 板垣退助墓所の駐車場

高知市アゾノ板垣山にある板垣退助と一族のお墓の専用駐車場が完成。
21-03-13板垣退助墓駐車場
2017年9月にアゾノの板垣退助の墓所が分からず、又行っても駐車場
が無い為、当時県議の久保博道氏に骨折って頂きました。現県議の
桑名龍吾氏にも同行頂き、NPO板垣会会長他役員と県市の観光振興
課に設置要望に行ったのがようやく実り、令和3年春に専用駐車場が
出来たがです。
板垣退助の墓所は東京都品川神社裏の旧高源院にもあり、ここ高知の板
垣山のお墓は分骨と言うことです。高知のNPO板垣会が高知にもと言うことで
昭和の時代に妻、祖先等が眠るこの場所に建てたのですけんど、駐車場が無
くタクシーにも分かりづらい場所でわざわざ県外からも来られても行けない
ことが頻繁にあり不評やったです。ようやく土佐が輩出した維新の元勲 
板垣退助のお墓として色んな人にお参りして頂けると 思われます。

👇高知市が心配するにせっかくの駐車場に他の目的で常時駐車を
せられないようにとの無断駐車禁止の看板
21-03-13無断駐車禁止

👇駐車場のすぐ横の階段を上った場所にすんぐに あります。
21-03-13板垣墓階段

👇板垣退助夫婦以外は乾家と書かれた墓所。元々は武田信玄の重臣板垣姓で
あったが故あって乾姓となり。静岡県掛川で山内一豊に召し抱えられ、260年後
幕末の戊辰戦争の折に板垣の姓に復帰しちょります。
21-03-13板垣山歴代墓所


21-03-13板垣退助墓

👇案内図
板垣退助墓所駐車場案内図000


高知インター料金所下の大きなカーブの下が駐車場です。県道44号線パチンコ一宮ホームラン前の交差点から北に上がって行くと高速侵入路の大きなカーブ左下に駐車場があります

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板垣退助没後102年祭が誕生地(高野寺)で行われた。

自由民権の神様と言われた板垣退助伯の玄孫高岡功太郎氏がお焼香
20-07-16板垣没後102年1

高知市中島町高野寺  没日供養
20-07-16板垣没後102年

没後100年祭りの時 東京の板垣退助顕彰会が造った位牌の裏には安倍晋三の名前がある。
20-07-16位牌表裏

NHKの取材を受ける玄孫の高岡功太郎氏
20-07-16板垣会NHK

同日4時から北隣のサンライズホテルに置いて特定非営利活動法人板垣会の社員総会が開催された。
20-07-16板垣会4

総会の最後に玄孫高岡功太郎氏の講座が行われた。
20-07-16板垣会講演

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板垣退助像後ろのツツジが咲いた!

追手門を入り 高知城を見上げる所にある 板垣退助像付近に4月14日ツツジが咲いた!

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板垣退助生誕地の大橋通り電停

とさでん交通 大橋通電停に大きく書かれた板垣退助・描いたのは西原理恵子
20-01-03大橋通り電停


20-01-03大橋通り電停2

鳥頭の城 – 漫画家 西原理恵子 公式サイト

板垣会 NPO法人 のホームページ

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退助と言う名前の由来!

土佐藩上士の生まれ板垣退助の幼名は猪之助だが、それがなんで退助と言う名前に?

板垣猪之助

板垣退助の玄孫の高岡功太郎氏が管理運営する 板垣退助先生顕彰会
HPの中で 命名の由来の説明によると、

退助の幼名・猪之助(いのすけ)は、乾和三(山内備後)の前名「猪助(いのすけ)」
からあやかって命名されたもので、乾和三の「猪助」の「猪」の字は、山内猪右
衛門と名乗っていた当時の山内一豊公から、和三が「猪」の字を賜ったことに
よるもの。「猪」は、「猪突猛進」、「猪武者」などと言われ、武士に好まれた動物であった。

しかし退助は「猪之助」の名の通り、腕っぷし強そうな相手でも怖いもの知らずで、
猪突猛進に喧嘩をしたりと腕白に育ち過ぎたせいで、謹慎処分を受けることしばしば。
ついに藩主公から「猪突猛進に突き進む「猪之助」ではなく、一歩、退いたぐらいを心
掛けよ」と「退助(たいすけ)」と言う名を賜ったとか。 後藤象二郎(幼名は「保弥太
(やすやた)」)とは竹馬の友で、お互い「いのす」、「やす」と呼びあっていた。

一般社団法人 板垣退助先生顕彰会のページ

玄孫の高岡功太郎氏が編纂し出版した 板垣精神
19-12-31板垣精神

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板垣退助誕生地案内板

天神橋商店街アーケード北面に写真付きで高知市観光課が板垣会の申し出で設置してくれました。
19-12-01itagaki.jpg

板垣退助誕生地 動画



板垣退助 いたがき-たいすけ    1837-1919 幕末-明治時代の政治家。
天保(てんぽう)8年4月17日生まれ。土佐高知藩士。戊辰(ぼしん)戦争で総督府参謀をつとめ,明治4年新政府の参議となる。6年征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年民選議院設立建白書を提出。帰郷して立志社をおこし,自由民権運動を指導した。14年自由党を結成して総理。24年再結成された自由党の総理。29年第2次伊藤内閣の内相。31年大隈(おおくま)重信と隈板(わいはん)内閣をつくり,内相。伯爵。33年政界を引退し,社会改良運動につくした。大正8年7月16日死去。83歳。初姓は乾(いぬい)。
【格言など】われ死すとも,自由は死せず(明治15年,刺客に斬りつけられて)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

NPO板垣会のHP

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