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高知の面白情報・今昔・夜景・等々

高知城国宝化運動 土佐の歴史 高知の夜景、面白、巨木・滝・四季の様子などを画像で紹介

岡豊城跡 伝厩跡曲輪の 坂崎紫欄の碑

南国市に残る長宗我部元親の岡豊城跡の二ノ段に上がる階段とシロことシータン
①岡豊城跡二ノ段へ

👇二ノ段から南東を見た。岡豊城跡には運動を兼ね年に何度も上がるお気に入りの場所
②岡豊城跡から南東

👇長宗我部氏岡豊城碑の跡とシロ
③長宗我部氏岡豊城跡とシロ

⓸22-04-01岡豊城跡階段

👇城跡一番西の伝厩跡曲輪(でんうまやあと)
⑥伝厩跡曲輪(でんうまやあと)

👇龍馬が世に出るきっかけを作った坂崎紫瀾の碑
⑦坂崎紫瀾の碑

👇説明
⑧22-04-01坂崎碑説明

👇シロと豆シロ
⑨23-01-11シロと豆シロ

👇南に見えるのは南国バイパス、大津バイパス経由高知自動車道へ行く東道路
⑩21-10-18岡豊城から

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護国神社 海軍の塔に書かれた龍馬と境内の桜

五台山南麓にある大きな海軍の塔。裏には土佐海援隊隊長坂本龍馬の勃勃
たる海洋精神により日本海軍は創成され等が書かれちょります。3月末頃は
境内に毎年桜が咲き普段の境内の様相が一変する華やかさになるがです。
①22-03-24護国神社

22-03-24護国神社

②22-03-24護国神社

⓷22-03-24護国神社

⓹22-03-24護国神社

👇動画  龍馬のことが書かれた海軍之塔裏の文字


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土佐の昭和の博覧会は5回あった

昭和12年に初めての博覧会が現在の龍馬スタジアム付近で開催されその後合計5回あった
22-01-11昭和の博覧会
残念ながら平成 令和と、6回目の博覧会は開かれていない。

👇昭和12年南国大博覧会の絵葉書
22-01-12南国大博覧会

南国土佐大博覧会
会期:1937(昭和12)年3月22日~5月5日 
入場者総数 4405.12人 
主催 高知市 
会場 元高知市総合運動場・柳原鏡川畔
*土讃線全線開通記念

南国高知産業大博覧会
会期:1950(昭和25)年3月18日~5月7日
入場者数 335.505人
主催 高知県・高知市
会場:高知公園及びその付近一帯・桂浜(協賛会場)
*高知市制60年記念

南国高知総合大博覧会
会期:1958(昭和33)年4月5日~5月13日
入場者数 429.624人
主催:高知県・高知市
会場:高知市庁舎・県民文化ホール・柳原鏡川畔ほか
*高知市制70周年記念他

南国産業科学大博覧会
会期:1966(昭和41)年3月19日~5月9日
入場者数:532.164人
会場:高知新聞放送会館・県民ホール
主催:高知県:高知市:高知章句会議所・高知放送・高知新聞社
*高知新聞放送会館落成記念

84高知・黒潮博覧会
会期:1984年(昭和59年3月20日~5月13日
入場者数 1.018.563人
主催 高知県・高知市・南国市・高知商工会議所・高知放送・高知新聞社
会場:元高知じばさんセンター及びその付近一帯
*高知新空港(現高知龍馬空港)ジェット機就航記念

以上 内容はオーテピアにて開催された 土佐の博覧会より

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高知大空襲の日に墜落したB29の事実

高知大空襲・墜落したB29を追って、の追跡ドキュメントの論文 (前田祐司氏著土佐史談238号)より
b29墜落の事実
昭和20年7月3日高知空襲に向かう第73爆劇団、129機の一員としてミスハップ号はサイパン島
イスリート飛行場を離陸した。ミスハップ号は編隊を組まず、無線の調子が悪かったが、機体に
異常がなかったのでそのまま飛び続けた。ミスハップ号が高知市上空に飛来したのは、空襲も
後半に近づいた頃。ミスハップ号の目的は炎上する市街地の様子を、撮影し空襲も終わりを迎
える頃、市街地中心部撮影のため1000㍍付近まで降下、炎上中の本町及び上町上空を東から
西に飛行、大きく旋回すると、今度はやや北西の方角から再び市街地に侵入撮影を始めた。
しかしこの時運悪く,丁度機体の上空2000㍍あたりで爆撃を始めたグループの真下にミスハップ
は入ってしまう。そして一斉に投下された焼夷弾の一発がミスハップ号の後部を直撃する。
焼夷弾がぶつかったのは旭町、もしくは上町5丁目付近あたりではなかったかと思われる(略)
54トンの機体は上町一丁目の電車通りに激突し機首の部分を地中にのめりこませ止まる(略)
この時切断された軽量の尾翼部分はまるで糸の切れた凧の如く数百メートル流された後、
高知城公園上空で急速に降下、梅の段に落ちる。木に引っ掛かった状態で見つかった遺体は
尾翼が地上に衝突した衝撃で銃座から投げ出され死亡した機銃手のハーマン・クルツ技術軍曹
と思われる。搭乗員は13名で墜落現場から収容された遺体は彼を含め全部で五体であった。
                        (前田祐司氏著土佐史談238号)より抜粋)
搭乗員13名で遺体は5人と言う事は8人が収容されず、その内数名かは墜落現場の地中に残さ
れている可能性もあるということになります(合掌)

👇B29爆撃機の模型の画像 機体後方下にちょっと出っ張ったものが尾翼銃座
21-12-30b29.jpg

 
 前田祐司氏は論文の中で米軍の数多くの資料を集め調査され、墜落したのはこのB29のみで
二機が空中衝突したとか護衛の為のP51と空中衝突したなどの疑問点を払拭し色々な角度、資料
目撃者等に聞き取りし238号に まとめられてます。他にも仁井田に2000㍍滑走路があった等々
数多くを土佐史談に論文として載せられてます。オーテピア内土佐史談会事務局088-854-5566
お電話又はFAX メール tosashidankai1917@theia.ocn.ne.jp でご連絡ください。
コピー代と郵送費を後日振り込んでいただければ 論文を郵送します。

オーテピア4階郷土史研究室内 土佐史談会事務局HP
令和3年12月30日より令和4年1月5日まではお休みです。

土佐史談会の機関紙201号~268号の目次

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第83代土御門天皇は自らの意思で土佐に流されていた。

香南市の子供の森 月見山にある土御門上皇仙跡碑の事
穏健であった土御門天皇の様子をみて不安に思っていた父である後鳥羽上皇は鎌倉
幕府から政権を取り返すことを考えていたので土御門天皇を16歳で退位させました。
こうして土御門天皇は若くして上皇となりました。
21-12-27土御門仙跡2

👇現地にある説明板
土御門1
2土御門1

👇現地月見山案内図
21-12-20土御門上皇地図

日本の歴史 83代天皇 土御門上皇
ここには4才で天皇とかいてある。


👇
香南市月見山の駐車場

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高知城二ノ丸に八幡宮があった

藩主の奥御殿(二ノ丸)の居間の前に今も残る池畔に寛永九年(1633年)八幡宮が
あった。高知城築城記によると、、(二ノ丸の地の南の方に少き池あり、往昔八幡宮
此に鎮座ありしとて、八幡池と稱すと) と言うことは高知八幡宮は、大高坂氏が居城の
時は大高坂城の本丸にあったが山内氏入国時、天守御殿を建てるにあたり二ノ丸の
この場所に移り、さらに現在の城内鎮座神社跡に移り、明治初めの版籍奉還により、
明治四年に現在の山田町に落ち着き、現在の高知八幡宮と呼ばれるようになった。
①21-09-28八幡池

👇二ノ丸築山 八幡池 城内神社跡の場所
③21-11-19高八幡池図

👇二ノ丸西より八幡池、前方に廊下門、天守が見える。左(北に二ノ丸御殿があった)
おそらく八幡宮が池の傍にあったので八幡池と呼ばれたと推測するも詳しい場所まで
は絵図にも載ってないが、三度場所が変わったことになる。鐘撞堂も三度移動している。
②21-11-19八幡池

👇現地にある説明板には八幡池と言う名前だったと言う説明は無い
⑤21-08-29二ノ丸の池

👇動物園があった場所の北下が城内神社跡
④21-11-19城内神社跡

八幡池の由縁はこれ以上の詳細はこれからも調査中です。

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菅原高視邸が高見町に あったと言うのは本当か?

西暦901年1月25日菅原道真公が太宰府に左遷されると嫡子右少辨高視朝臣もまた土佐権守として
京都を逐われ土佐国潮江に居住したと言われているが、約30年後 土佐日記の紀貫之が国司として来
た時も土佐国府は南国市比江であった。通勤するにはあまりにも遠い。ましてこの時代は潮江と大津
付近は海である。船で行くには港があった筈。それならば小字名に(津)等が残るはず。
それと第一に土佐権守としての屋敷にしては、あまりにも狭い屋敷跡。推測すると別邸かも??
21-02-17菅原高視邸跡

👇屋敷跡は筆山トンネル東交差点南のマンションを西に入る
②12-09菅原高見邸跡入り口

👇山に上がる道を左に進む
③20-12-09菅原入り口

👇屋敷跡と言われる場所の下に説明板があった。
④20-12-09菅原高見邸跡説明

👇菅原高視邸跡碑
⑤21-02-17菅原高視邸跡碑

👇屋敷跡の上に お墓もあるが、この当時の墓は土饅頭がお墓であり、墓石としてはこの時代まだない
と分かっている。土佐に5年間居て帰京し38歳で病死しているし墓石は新しい。
このことは長宗我部地検帳研究第一人者でもあるA氏が以前から唱えている。
⑥12-09菅原高見墓所




キリストにしても父親は居らずマリア様が馬小屋で産んだ、と言うのが通説でもあり、深く追求することでもない。







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高知城内には8つの櫓があった。

高知城を公園にする為城内にあった二ノ丸御殿 三ノ丸御殿 各櫓等現存建造物以外の建造物が破却された
20-11-13高知城の8つの櫓

👇この絵図は吉松靖容氏の御子息に了解を頂き写真に撮ったもんです。
吉松靖容氏は昭和30年代に県立図書館に日参し本物の絵図を寸分たがわず
数十枚もの高知城の絵図を写し描いたものです。 感謝に堪えません。
20-11-13高知城櫓跡

多分写真としては残ってない高知城の様々な建造物が見事に描かれてます。
右上の丑寅櫓が浦戸城の天守だったのを移設したと言われ(疑問が多い)
櫓の中でも唯一高欄があったのが描かれちょります。
土佐山内家の高知城は約260年の歴史があり、合計8つの櫓と言うのは
時代により変化があったりし、名前も変化しちょります。
高知城各櫓絵図吉松靖容氏絵図より


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悲劇の殿様 土佐麻布支藩藩主山内豊福の墓

悲劇の殿様 山内豊福は容堂の弟分、お墓は旭天神町、高知市の水源である水道山に
一人寂しく眠っちょります、令和2年10月27日に3度目の墓掃除。綺麗になりました。
20-10-30山内豊福墓

掃除前はものすごい状態。付近は高知市管理の為、市が依頼し民間業者が綺麗に
してくれているがこの場所は個人のお墓の為毎年雑草が伸び放題
20-10-30山内豊福墓掃除前

悲劇の殿様の説明
20-10-30山内豊福墓説明

👇動画 毎年須崎の小野さんがエンジン付き草刈り機を持参、駆けつけてくれて
短時間で刈ってくれる。以前は野中兼山の墓掃除の時もやってくれ大感謝です。


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小津高校の前身 海南学校の初代校長 吉田数馬 

龍馬を敬慕し龍馬に気に入られた吉田数馬は十市に生まれ後に現土居町に住み生涯を終えた
吉田数馬説明

👇丸く一目で解る変わった形の墓は一部欠けている。
戊辰東征に従い新留守居組になった。維新後に征韓論で下野し帰郷し、山地元治
北村重頼らと相談して、山内豊範に海南私塾を東京に設立させた。明治9年高知に
分校(後の海南中学・現小津高校)が開設され、山内家相談役谷干城の信任厚い
数馬が初代校長に任命された。教育者で全国初の藍綬勲章を受けた。
20-10-18吉田数馬墓

👇筆山トンネル上 野中兼山の墓の上の横道から見上げると丸い変わった形の墓が見える。
20-10-18吉田数馬墓2

 墓石に書かれた文字は今は読めんですが
 土佐史談会発行の(土佐の墓)から引用
嗚呼人も死すべき時に死せざれば死にまさる恥ありとかや
野夫も本年齢已に六十に達しつくづく往時を回顧すれば所謂
死すべき時もありつれど機を誤りて生きながらへ、永らく海南
学校のお世話致し居りしも、之亦何の貢献する所もなく、遂に
老齢を以て今般御辞退仕る爰に同校出身の諸士は、野夫が
年来の勤労を多とし、金員及銅像等を恵与せられ、実に慚愧
赤面之至りに候。志かれ共又、折角諸士の野夫之老懐を慰せ
んとの此の美挙を敢えて御辞退申すも、却って礼にあらざるべ
しと仍て其の贈与せられたる銅像は、永く家に蔵し、金員は以
て野夫夫妻の壽碑を作り、藹然たる諸士の芳情を永く子孫に
伝へ度、自ら愚衷を碑面に勒し、之を表する事如此候也。
   明治四十年一月           加壽万しるす

👇動画


高知県立高知小津高等学校の沿革

凄いデーター 土佐の歴史散歩

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