トップ画像
昭和23年全国では始めて バスを図書館にし県内を回った。。。
S23年図書館バス

S23年図書館バス第2号

昭和25年県立図書館入口
以上 写真で振り返る高知県立図書館 より

親サイト高知の面白いページ
土佐の昔 | コメント:0
大正天皇即位の記念事業として高知県立図書館が大正6年発足したおしゃれな建物。。。。
大正6年県立図書館

高知大空襲で焼けた為その後 昭和25年お城の図書館として親しまれた建物。
昭和25年県立図書館全景

↓昭和48年に改築され平成29年12月28日に閉館された。南側に山内一豊像。
県立図書館と一豊像

↓玄関にあった利用案内
県図書館案内

高知県立図書館の沿革
県立図書館と同じく歩む土佐史談会HP土佐史談会

土佐の昔 | コメント:0
友綱貞太郎のこじゃんと大きな碑が龍馬スタジアム南にある、、、
友綱貞太郎碑22
明治16年本県出身力士第一号で東京大相撲で活躍し明治24年友綱親方として多くの
力士の育成し友綱部屋を大部屋に築き上げ両国国技館の中心的な役割を果たした。
碑の文字は山内豊景公爵、発起人は土佐の交通王と呼ばれた野村茂久馬翁
友綱貞太郎碑1
この場所に昭和の時代 野村茂久馬翁が寄付した相撲場があった為ここに立てた。
友綱貞太郎の碑の説明

↓57秒の動画



親サイト高知の面白いページ
土佐の昔 | コメント:0
香美市立美術館にて武吉孝夫写真展・昭和51年の追手筋1丁目、現在ひろめ市場、
追手筋1丁目角
武吉氏は心が広く写真展で写真を撮ってブログにアップも自由とのことでした、大感謝です。

↓戦後生まれには懐かしい上町5丁目南の風景
武吉孝夫写真展・記憶の街 上町5丁目

↓旭小学
17-11-10武吉写真展より旭小学

写真展の画像300枚ほどは(記憶の街)と言う本になり金高堂で買ってきました。
記憶の街ポスター


親サイト高知の面白いページ



土佐の昔 | コメント:2
昭和7年ロス五輪にて高知商業の北村久寿雄選手の優勝を記念して昭和11年建設されたプール
高知市営プール昭和
 ↑ ↓手前 飛び込み用プールと50m競泳用プール (市営プール資料より)
昭和28年国体夏季大会市営プール
昭和30年には日米対抗水上対抗が行われ筆者も見物に行ったら確か江利ちえみのショウーも同時に行われた。

↓観客席下の更衣室 アーチの補強が特徴 入場料は一般が120円高校生以下が60円
昭和11年市営プール観客席下脱衣場2

鏡川の地下水を汲み上げ6月下旬から9月上旬まで利用。現在のテニスコートの移動により壊された。



親サイト高知の面白いページ
土佐の昔 | コメント:0
大正6年5月高知県立図書館が本の貸出しを開始 同館より9月に土佐史談を発行
(画像は2016年高知県立図書館土佐再発見より)
2016年図書館100周年
県立図書館は家老・五藤正身の息子、五藤正形を中心とし明治36年土佐図書倶楽部を創立したのがはじまり

高知県立図書館と土佐史談会の沿革が解る
土佐史談会m2018年3月新図書館4階に引越しします。

↓2018年夏 新図書館オーテピア開館を目指し新しい姿を現した(高知城本丸南下鐘撞堂横より)
17-09-08新図書館2

↓47秒の動画


土佐史談会土佐史談会
土佐の昔 | コメント:0
土佐の高知の今昔写真 戦後わずかの年月で ものすごい復興状態に比べ今は閑散??
昭和27年平成29年潮江橋北詰から南を

↓ 昭和24年南はりまや町から潮江方面、、前方に筆山が見える。
昭和24年南はりまや町から潮江を

親サイト高知の面白いページ
土佐の昔 | コメント:0
昭和22年 昭和31 昭和43年 高知城天守より見た高知市中心部の変化、、、
17-07-06昭和22年城より

昭和31年城より

昭和43年城より


親サイト高知の面白いページ

土佐の昔 | コメント:0
慶応4 (1868) 年3月 14日,16歳の明治天皇が示された明治新政府の基本方針。
17-07-055箇条の御誓文
5ヵ条より成るのでこう呼ばれ由利公正が起草し,福岡孝悌が修正を加え,木戸孝允が訂正したもの

17-07-05五箇条の御誓文2
福岡孝弟 ふくおか たかちかhttp://www.ndl.go.jp/portrait/datas/184.html
17-07-05福岡孝弟高知の面白いページ
土佐の昔 | コメント:0
幕末土佐山内家は3頭政治 それを昭和の山内家18代当主が歴史を紐解き土佐史談に寄稿。
幕末三頭政治

幕末土佐藩の主脳はいわゆる三頭政治で、隠居二人に若年の
藩主という稀有の形であった。隠居は十二代藩主豊資(景翁・
明治元年現在七十四歳)と、十五代藩主豊信(容堂・同年現在
四十一歳)であり、藩主は十六代豊範(同年現在二十一歳)で
あった。  この三頭政治で表面上は藩政が平穏裡に運ばれて
いるかに見えるが、内面の軌牒は相当なもので、これをどうにか
取りまとめてきたのは、とかく批判はあっても、やはり景翁の
老巧さと勢威によるものであったが、幕末における土佐藩の
態度に、とかく因循のそしりがあったとすれば、‐その一因は
上層部の多頭制に帰せられるべきであろう。

あえてその実情を開陳すると、まず、嘉落で剛果な容堂と、謹直
で誠実な豊範ではまったく性格が異って居り、政策上の意見の食い
違いが内在し、また、夫々附随った家臣との関係から、豊範は武市
半平太と彼の同志を救解するため泣いて容堂に訴え、景翁にすがり
てもみたが、その努力もむなしく若い藩主の意志は無視されて、あ
たら有為の人物を数多く処刑する結果となった。豊範の長子である
先代の豊景は、豊範の考え方に強く共鳴し、その立場に同情し、容
堂の浪費に反発を覚えていたが、何といっても容堂は土佐藩の大黒
柱であり、人格者といえなくても、彼個人の能力は抜群で、学もあ
り心臓も強く、その政治感覚に至っては当代屈指とみられていた。

以上 土佐史談155号に昭和の山内家18代当主山内豊秋氏 寄稿の中から一部抜粋

追記 13代 豊凞(とよてる)は約5年 14代 豊惇(とよあつ)は藩主になってわずか
12日後に死去した為 徳川の温情による土佐藩取り潰しを免れた経緯とかがある。

土佐史談会土佐史談会
親サイト
高知の面白いページ
土佐の昔 | コメント:0
| 高知の面白情報・今昔・夜景・等々 |

フリーエリア

にほんブログ村 写真ブログ 四国風景写真へ
にほんブログ村

フリーエリア

カウンター

| 高知の面白情報・今昔・夜景・等々 | NEXT