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高知の面白情報・今昔・夜景・等々

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寺田寅彦と父母と彼の3人の妻の墓所

理学博士・物理学者でもあり随筆家でもあった寺田寅彦は高知市東久万に眠る。
寺田寅彦ブログ
寺田寅彦の生まれは東京だが幼時に大川筋に帰る。第五高等学校で漱石に英
語と俳句をまなび、東京大学に行く時代に正岡子規を識る。大学院で実験物理学
を研究する一方ホトトギスに写生文を発表。東大講師・助教授を経て留学帰朝後

教授になる。理学博士、物理学者で(天災は忘れられたる頃来る)の警句は有
名。寅彦の研究と興味は広凡で物理学の全分野にわたり論文は250篇に達し
ている。随筆・俳句の他、多芸・多趣味であった。
 以上 土佐史談会発行の)土佐の墓)より


寺田寅彦の父 利正は文久元年永福寺門前の「井口事件」があった時、親戚に
依頼され少年宇賀喜久馬の介錯をし、また、利正は後に陸軍会計官として
西南戦争にも従軍しています。 
以上  前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」
20-07-21寺田寅彦の父墓

寅彦は妻に恵まれず 手前の紳は3番目の妻、昭和33年72才で亡くなり。
その隣が2番目の妻 寛子で大正6年31才で亡くなり。その隣が最初の妻
夏子で明治35年20歳で亡くなってます。
20-07-21寺田寅彦墓2

寺田寅彦墓誌
20-07-21寺田寅彦墓誌


20-07-21寺田寅彦墓説明

動画



ここに寺田寅彦の墓入り口 ここから300mの標識

土佐文旦発祥の地

土佐市宮の内に土佐文旦発祥の地がある、意外と新しく昭和18年宮地文弥氏が果樹試験場から苗木を導入したとのこと。
20-06-17土佐文旦発祥の地説明


20-06-17土佐文旦発祥の地碑


20-06-17土佐市宮ノ内マップ

土佐文旦発祥の地はここ

【土佐文旦】のことを紹介させて下さい 白木果樹園

番所だった建物の茅葺屋根がガルバリウム屋根に!

仁淀川町泉地区に今も残る泉の番所跡建物は元禄3年(1690年)に設置され明治3年(1870年)
まで使用されちょりました、が残念ながら茅葺屋根の葺き替えの為の資材不足、人手不足、予算
不足の為、ガルバリウム屋根に葺き替えされた。令和元年までは立川番所と並び茅葺屋根だった
仁淀川町泉の番所跡建物
20-04-02泉の番所跡建物
画像は町高知県 仁淀川町観光協会によど川、TVより

令和元年11月30日茅葺屋根の泉の番所跡建物を写しに行くと、丁度屋根の葺き替え工事中
19-11-30izumi.jpg


令和元年11月末に屋根のみ現代風に、建物が残っているのは県内86あった番所で、立川番所と大豊町西峯と
ここだけ。令和2年3月末再訪問し写したが、その時大事な手帳を落とし、翌日又同じルートを探し現地まで走ったが
分からず。2週間のち、現地の西森さんからありがたい電話あり、斗賀野で待ち合わせし、ようやく手元に。
ちょっと濡れた状態だったが現在も使用中。西森さん どうも有難う御座いました。
20-05-17泉の番所

屋根部分の小屋組の古材を残し その上に茅葺では無い ガルバリウムとか現代の材質で
建物を残す方法が良かった、と文化財保護の専門家が教えてくれました。
20-05-17泉の番所2


20-04-02泉の番所説明

泉の番所跡建物から南の山を見ると旧葉山村の風の里公園の風力発電の風車が見えた。


国道33号を松山方面へ向かい、大渡ダム公園手前を左折、国道439号へ入り梼原町方面へ、
三所神社付近から鳥形山に上る車道を山手に上がって行くと右手上にある。

土佐史談表紙の写真の最初は昭和39年金銅旅壇具

金銅旅檀具とは早い話 旅行に持って行く仏壇のこと。大正6年創立 
土佐史談会の機関紙の表紙は文字のみで途中から田中光顕の揮毫
で現在も使用 写真を使用したのは昭和39年発行108号が最初
土佐史談108号表紙

↓ 金銅旅檀具とは 詳細 ↓
108号表紙2 (2) (1)

土佐史談会 HP

土佐山田町 野中兼山終焉の地と野中神社

野中兼山は物部川の山田堰 仁淀川の八田堰 等々県内に多くの治水灌漑による
新田開発や在郷町の開発、港湾の整備など土佐藩発展の基礎となる事業に次々と
着手し 土佐藩の財政と民生の向上に大きな役割を果たした。しかし同僚である藩政
幹部からの反発や嫉妬を招き、失脚の憂き目に遭うことになる。失脚後、かれは香長
平野の新田開発事業の拠点として構えた山田中野の別宅「明夷軒」に蟄居。一度の
登城もせず、門を閉ざし来客も拒み読書三昧の日々を過ごしていたが、間もなくにわ
かに病を得て四十九才の生涯をここに終えることとなる。
20-03-28野中兼山終焉の地

1分2秒の動画


野中兼山の娘が40年の幽閉を解かれた後 医師として生計を立てながら、
兼山や失意の中に息絶えた野中家の人々の祭祀を守り、父の汚名が晴
れることを願って生き、遺品、家財を売却した僅かな資金で、旧臣古槙
氏の協力により山田上野の地に祠堂を建立し「野中神社」として祀った。

野中神社
20-03-28野中神社

野中神社場所
20-03-28野中神社場所



野中兼山と 娘 婉の墓は高知市筆山にある。


野根山街道 岩佐の関所跡(番所) 

安芸郡奈半利町から山越えで東洋町に至る44キロの山道の途中にある岩佐の関所跡
土佐では関所のことを、番所と呼ぶが何故かここは関所と呼ぶことが多い。
藩政時代土佐には86番所があり、岩佐は土佐の主要3番所の一つ、
他は大豊町の立川番所 もう一つは 仁淀川町の用居番所がそれである。
20-03-25野根山岩佐番所跡

左上には参勤交代のための御殿跡。 幕末には勤皇党の武市半平太の
獄からの釈放と藩政の改革を要請するため、二十三士がここに集結した
が土佐藩はそれを却下、首謀者の清岡道之助一行は阿波まで逃れたが
討伐軍につかまり 安芸郡奉行所に送られ、翌日全員が斬首された事件は有名。
20-03-25岩佐番所跡3


20-03-25岩佐番所跡2 (1)


20-03-25岩佐番所跡4

地図は南北反対で野根の方から見た地図。現在 岩佐の関所まで行くには
野川林道の途中の宿屋杉登山口まで車で行きそこから徒歩で約2時間
20-03-25岩佐番所跡地図改

ちょっと平らになった場所は 参勤交代の途中で宿泊する藩主の御殿跡
20-03-25岩佐番所跡6

幽霊が出ると言う悲しい伝説が残る。
20-03-25岩佐番所跡0

安岡良亮のことを知る人が少ない!

幕末 現四万十市生まれの安岡良亮は幕末において幡多勤皇党 樋口真吉と並ぶ人物であり 
龍馬より10歳年上である。京都の小松帯刀邸において、薩摩の西郷隆盛と土佐の乾(板垣)
退助の間で交わされた(薩土密約)の締結にも参画した。
 戊辰東征にて迅衝隊半隊長として参加し 千葉流山で捕縛された新選組近藤勇を江戸板橋に
連行し、刑を決めるさい、土佐代表の良亮と谷干城の強い主張が通り、斬首したことは有名である。
20-03-19安岡良亮
戊辰戦争時は龍馬暗殺の犯人は新選組と言うことが信じられており安岡良亮と谷干城は龍馬の敵討ちをしたもの。



数少ない 安岡良亮の写真 
2020-03-19 112213

安岡良亮はその後明治新政府に入り集議員判官、民部小丞から、
高崎県(群馬県)参事、度会県(三重)大参事、さらに白川県県令
白川県が熊本県に改まってからの初代県令(知事)となった。

これらの県はいずれも廃藩置県後、政情が不安で難治の県と
されていたところであり、良亮の人心掌握の力をかっての
大久保利通の任命であった。熊本では不平士族の神風連が

暴発寸前であったが、良亮による硬軟両様の融和論が
功を奏しつつあった。しかしこれをおさえられず、ついに明
治9年、神風連の切込みにあり、命を落とした(52才)

乱は制圧されたが、危機感をもった政府は、いったん退
ていた熊本鎮台長官に谷干城を再任し、防備を強化した。
もし、神風連が温存されていたら翌年の西南戦争において

西郷軍に合流したてあろうし、そうなれば熊本城は落城
全国の反政府勢力が一斉蜂起し、明治政府は瓦解して
いたであろう。

盟友谷干城は熊本で英雄となったが、良亮は捨て石となった。
    
   以上 土佐史談 264号 安岡良亮とその一族
          田中全氏 著 より 引用

墓は熊本城近くの県官墓地にあるが熊本の人達からも
忘れられた存在になっている。

尚 この論文は一部で 全部を見たい方は088-854-5566 
土佐史談会事務局に連絡頂くと有料ですがコピーの上郵送致します。



大正15年頃の潮江と昭和46年の潮江

潮江村は1926年(大正15年)1月25日 - 高知市に編入。高知市潮江となる。
住宅は天神町、梅ケ辻、筆山町、塩屋崎町付近のみ。
現在の潮江中に女子師範学校があり、高知商業高校が県民体育館の
場所にあり、南中高とわんぱーくこうち付近には競馬場 他はほぼ田畑 
    (昭和47年潮江中学が作った本より)
大正15年頃の潮江

昭和46年頃の潮江地区は土居町、潮新町、百石町等、桟橋通は3丁目まで、孕西町等、住宅が大幅に増えた。
 (昭和47年潮江中学が作った本より)
昭和46年潮江地図

高知市に編入された村と増えていく潮江地区の人口
   (昭和47年潮江中学作った本より)
増えていく潮江の人口2

現在の潮江地区 ヤフー地図

人類最悪のインフルエンザはスペイン風邪と呼ばれた。

大正7年(1918年)世界・日本・高知県民も恐怖のどん底に、、、土佐史談251号に詳細が!
スペインインフルエンザと高知県

2020年2月19日現在中国からの新型コロナウイルスで世界中が
恐れているが1918年第一次世界大戦のさなかスペイン風邪と呼
ばれた新型インフルエンザは人類を襲った最悪のインフルエンザ
と言えるものだった。スペインと名はついているがアメリカで確認
され各国の軍隊を介し世界で大流行し4ケ月で地球を一周した。

日本では大正7年に全国的に流行し、3年間で人口の約半数の
2380万人がかかり、約39万人が死亡したと報告されている。

高知県では総人口703.899名の内147.200が罹患し その内
924名が死亡したことになっている。ただ死亡率は0.63%と
全国最低の数字 徳島県は4.465名 香川県6.028名  愛媛
県5.643名 高知県がこの程度で終わった理由は分かっていない。 
  以上土佐史談251号 p55~p70 公文豪氏著 より抜粋

県内の患者数等を 学校 軍隊 郵便局 商店 病院 県庁 
市役所 土佐電気鉄道 日曜市等 それぞれマヒした模様が
書かれてますが 論文のため ここにそのまま書くわけには
行かず 残念。(朝倉44聯隊は聯隊長以下兵士のほぼ全員
が感冒にやられ、軍隊としての機能を完全に失っていた等)

筆者が高知県が何故国内で一番罹患率が低かったか?
推測するに大正7年頃は人口67万人ほどで高知市は
わずか49.000人 圧倒的に広い県内に散らばって居る
状況、それに現在と比較すると他県から現在と違い
流通が乏しい状況。 陸の孤島のため、広がりが少な
かったと推測する。現在と比較すると、大きく状況が違う。

注 オーテピア高知図書館4階郷土史研究室又はオーテピア
3階郷土史コーナーで土佐史談251号の閲覧は出来ます。

251号表紙
251目次

土佐史談会 HP

宮中に絶大な権力を持った田中光顕邸跡は佐川町にあった。

武市瑞山の土佐勤王党に属し尊攘運動に参加,1867年には上京して中岡慎太郎の陸援隊に加入。維新後,岩倉使節団に随行して渡欧,のち元老院議官・警視総監・学習院長などを歴任。1898年宮内大臣となり,以後11年間宮中に勢力を振るった。
20-01-19田中邸跡


20-01-19田中公園


20-01-19田中公園説明板

44秒の動画

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