高知大学朝倉キャンバスのひょうたん池は今でも健在
2019-01-09
昭和31年高知大学朝倉キャンバスに高知大学付属中学がその池は現在もあった。

図は1958年度高知大学教育学部配置図 右上にひょうたん池
(高知市朝倉)出展高知大学要覧昭和33年度より

↓土佐史談会関東支部理事正木宏幸氏(獣医学博士でもありO157の研究で活躍された)が付属中学の後輩だったので朝倉城跡等案内したあと懐かしいひょうたん池を一緒に見に寄った。

土佐史談会

図は1958年度高知大学教育学部配置図 右上にひょうたん池
(高知市朝倉)出展高知大学要覧昭和33年度より

↓土佐史談会関東支部理事正木宏幸氏(獣医学博士でもありO157の研究で活躍された)が付属中学の後輩だったので朝倉城跡等案内したあと懐かしいひょうたん池を一緒に見に寄った。

土佐史談会
第6代高知県令伊集院兼善の長女は西郷隆盛の一番目の妻
2018-11-18
筆山の龍馬の祖父の墓のすぐ下にある旧薩摩藩士 伊集院兼善は明治15年1月に高知県令と
して赴任したが(片岡直温回想録)に、「新県令伊集院兼善は病気がちだったが、書記官太田卓之
は県庁属官や郡長や師範学校、中学校、女子師範の教員で立志社系の人物を解職した。伊集院
県令も太田書記官もみな佐々木高行等の息のかかったものである」と記されている。


塩屋崎交差点の近くの石段から筆山に約10分登った道際にある約1立方米の立派な墓石は以前
の筆者の家の墓に行く道標でもあった。近くに海軍大将永野修身の墓もある。すぐ上には龍馬の
祖父の墓があり 手前の横道を南に行くと民権ばあさんの楠瀬喜多 そのすぐ上には吉田東洋
南に下りると野中兼山ほか幕末から明治にかけて活躍した偉人等のお墓がいっぱいあるが近年墓を移したり
墓参りをする人が減り山も荒れて以前楽に行けた場所も草木が伸び判らんなったり石垣が崩れたりで残念。
下は2018年11月17日行き写した野中兼山等のお墓。

板垣会NPO法人板垣会
土佐史談会
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して赴任したが(片岡直温回想録)に、「新県令伊集院兼善は病気がちだったが、書記官太田卓之
は県庁属官や郡長や師範学校、中学校、女子師範の教員で立志社系の人物を解職した。伊集院
県令も太田書記官もみな佐々木高行等の息のかかったものである」と記されている。


塩屋崎交差点の近くの石段から筆山に約10分登った道際にある約1立方米の立派な墓石は以前
の筆者の家の墓に行く道標でもあった。近くに海軍大将永野修身の墓もある。すぐ上には龍馬の
祖父の墓があり 手前の横道を南に行くと民権ばあさんの楠瀬喜多 そのすぐ上には吉田東洋
南に下りると野中兼山ほか幕末から明治にかけて活躍した偉人等のお墓がいっぱいあるが近年墓を移したり
墓参りをする人が減り山も荒れて以前楽に行けた場所も草木が伸び判らんなったり石垣が崩れたりで残念。
下は2018年11月17日行き写した野中兼山等のお墓。

板垣会NPO法人板垣会
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昭和27年お城の動物園に象が来た!
2018-08-12
80万円で象が、お城の動物園観覧料は大人10円子供5円昭和27年のこと。

2018年9月4日までわんぱーくこうちで開催中よりの写真から抜粋
「進め!高知市立動物園 ~お城の動物園から67年~ 」

わんぱーく観覧券

昭和27年ぞうさんが来た

昭和27年 象さんと兄と自分

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2018年9月4日までわんぱーくこうちで開催中よりの写真から抜粋
「進め!高知市立動物園 ~お城の動物園から67年~ 」

わんぱーく観覧券

昭和27年ぞうさんが来た

昭和27年 象さんと兄と自分

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土佐の碑(いしぶみ)を未来永劫に残す作業
2018-07-19
土佐史談会に寄贈され残されていた江戸時代から残る石碑等の拓本をデータ化
石碑も石自体が酸性雨の為 風化し苔が生え文字が見えなくなるので後世に残すには今しかない。

福島順司さんが県内を走り回り石碑、墓石の苔を綺麗に取り除き約1000の拓本を土佐史談会に寄贈して頂いちょりましたがあまりの量で手が付けられず今回 日本石仏協会理事・土佐史談会理事 岡村 庄造さんがボランティアで お1人で整理をされいるのを見て これはなんとかデジタル化した方が本にするにも映像で見るにも良いと思いたち、第一 岡村さん1人では数年ですむ作業では無いと思い古文書・崩し字もほとんど読めん筆者がデジカメで写し資料として残す作業を手伝います。といったものの、、実際オーテピア4階郷土史研究室の土佐史談会にカメラ、三脚等持込み評議員の津野氏にも手伝ってもらい7月17日と18日延べ10時間でやっと100数十枚、大きい拓本は畳一枚、他4枚組、墓石4面の拓本等を撮ったが まだまだ数もありオーテピアの駐車場も開館により自由に使用できなくなり 後日仕切りなおしすることになった。

高見山にある武市熊吉が明治6年岩倉右大臣を襲撃し罪に問われた石碑の拓本

岡本弥太 歌碑 これは読めるが字が読める拓本は少ない。

墓の4面の拓本

野根山二十三士句碑

土佐史談会
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石碑も石自体が酸性雨の為 風化し苔が生え文字が見えなくなるので後世に残すには今しかない。

福島順司さんが県内を走り回り石碑、墓石の苔を綺麗に取り除き約1000の拓本を土佐史談会に寄贈して頂いちょりましたがあまりの量で手が付けられず今回 日本石仏協会理事・土佐史談会理事 岡村 庄造さんがボランティアで お1人で整理をされいるのを見て これはなんとかデジタル化した方が本にするにも映像で見るにも良いと思いたち、第一 岡村さん1人では数年ですむ作業では無いと思い古文書・崩し字もほとんど読めん筆者がデジカメで写し資料として残す作業を手伝います。といったものの、、実際オーテピア4階郷土史研究室の土佐史談会にカメラ、三脚等持込み評議員の津野氏にも手伝ってもらい7月17日と18日延べ10時間でやっと100数十枚、大きい拓本は畳一枚、他4枚組、墓石4面の拓本等を撮ったが まだまだ数もありオーテピアの駐車場も開館により自由に使用できなくなり 後日仕切りなおしすることになった。

高見山にある武市熊吉が明治6年岩倉右大臣を襲撃し罪に問われた石碑の拓本

岡本弥太 歌碑 これは読めるが字が読める拓本は少ない。

墓の4面の拓本

野根山二十三士句碑

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高知市戦災復興史
2018-07-06
昭和44年高知市が発行した高知市戦災復興史の色々な写真
昭和21年12月21日城見町 南海地震後

↓昭和21年12月24日若松町南海地震後

↓昭和25年高知市大橋通 丁度この頃天神町から天神橋を渡りこの大橋通の公設市場を毎日 永国寺町の高知女子大付属幼稚園に通った、5歳ばーには結構遠かった。

↓戦後復興史の本

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昭和21年12月21日城見町 南海地震後

↓昭和21年12月24日若松町南海地震後

↓昭和25年高知市大橋通 丁度この頃天神町から天神橋を渡りこの大橋通の公設市場を毎日 永国寺町の高知女子大付属幼稚園に通った、5歳ばーには結構遠かった。

↓戦後復興史の本

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柳原御旅所鳥居は藤並神社から・
2018-05-11
山内神社南の駐車場は戦前には御旅所の鳥居があった。
御旅所とは神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に神輿(みこし)を鎮座しておく場所(デジタル大辞泉)

御旅所とは神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に神輿(みこし)を鎮座しておく場所(デジタル大辞泉)

柳原公園と みどりの広場の今昔写真
2018-05-10
昭和の時代は柳原公園と呼ばれ平成の世に みどりの広場となった
松の木の左には山内家の散田邸と呼ばれる1万坪ばーの屋敷があった。

昭和40年代まで現在のみどりの広場附近は現在と違い車がそのまま鏡川に乗り入れ出来たもんです、洗車をするにこじゃんとのーが良かった。あちこちの中洲も広く干潮の時はボートにも乗れんばー川が浅く 泳ぐ場所は限られちょりました。
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松の木の左には山内家の散田邸と呼ばれる1万坪ばーの屋敷があった。

昭和40年代まで現在のみどりの広場附近は現在と違い車がそのまま鏡川に乗り入れ出来たもんです、洗車をするにこじゃんとのーが良かった。あちこちの中洲も広く干潮の時はボートにも乗れんばー川が浅く 泳ぐ場所は限られちょりました。
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維新三傑と土佐藩首脳との会談の地
2018-04-21
内閣総理大臣濱口雄幸誕生地
2018-03-02
濱口雄幸は昭和4年第27代内閣総理大臣に その風貌でライオン宰相と呼ばれた・・・

昭和天皇より任命された。

↓濱口雄幸生家記念館入口の碑

↓濱口邸外観

↓資料室

↓濱口邸内部

↓動画
0.25%の軍縮で狙撃された浜口雄幸首相
誕生地の地図
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昭和天皇より任命された。

↓濱口雄幸生家記念館入口の碑

↓濱口邸外観

↓資料室

↓濱口邸内部

↓動画
0.25%の軍縮で狙撃された浜口雄幸首相
誕生地の地図
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