志国高知幕末維新博が始まったけんど?

2017.04.06 (Thu)
果たして幕末維新とは ちゃんと説明できる人はどればー居るろーね??
多分 竜馬がゆく 龍馬伝 おーい竜馬 のイメージがほとんどで 人物も限られてくる。
幕末維新とは?

幕末維新とは定義は無く 諸説あるが簡単に言うと黒船来航(1853年)から
戊辰戦争 明治10年(1869年)または慶応3年(1867年)大政奉還が行われた
年から明治10年(1877年)の西南戦争までを言うのが多いです。

「維新」の意味ですけんど、「維(こ)れ 新(あらた)なり」であり、すべてが
改まって新しくなったということになりますき 武士の時代が終った明治10年。

維新三傑と言われる長州の木戸孝允は1877年(明治9年)5月26日京都で病没。
薩摩の西郷隆盛は西南戦争で1877年(明治9年)9月24日鹿児島で戦没。
薩摩の大久保利通は紀尾井坂の変にて1878年(明治10年)5月14日殺されてます。

龍馬、慎太郎亡き後 維新の三傑も亡くなり新国家を目指し 自由民権運動
の旗頭として大正時代まで活動した板垣退助の功績はすばらしいと言えます。

維新殉難志士特集号
会津の戦いを終えた土佐藩兵 前列中央に板垣退助と右に12歳
谷干城養子の谷乙猪 後列左 片岡健吉  中列左から二人目 谷干城


 追記、、土佐史談 維新殉難志士特集号の戊辰戦争における
土佐志士の活躍とその最後 ⇒中村武一著による 論文
 戊辰の役を通じて土佐藩最初の戦死者は、鳥羽伏見の戦い
で長州軍の遊撃隊参謀を務めた後藤深造である。彼は戦端開始の正
月三日夕刻、敵弾にあたって伏見の御香宮北側で戦死した。二十七
歳であった。酒を飲んで跳び出したところをやられたという。後藤
深造とは在藩当時の上田宗児が、脱藩して長州へ走ってから改名し
たのであって、第二次征長の役では小瀬川に出動し、敵将と組討ち
してこれを討取っている。この時、彼も片手首を切断しなければな
らない重傷を受け、長州藩主から感状を受けている。伏見での彼は、
酒を飲んで戦場へ出たという、如何にも典型的な土佐型の若者の姿
である。伏見東福寺の末寺退耕庵に他の長州陣没者とともに祭られ
ている。

 以下土佐史談 戊辰戦争と土佐藩 山本大 著より 抜粋
大阪の旧幕軍北上の報に接し、朝廷では慶喜の上洛を中止させ、
薩長と土佐・芸州の四藩に出兵を命じ、応急の処置をとらせた。意
気のあがる薩長の軍に比し、土佐藩兵は、容堂がこの戦いは薩長と
会津・桑名の私闘で朝廷とは関係がないから、沙汰のあるまで戦争
への参加を禁ずる、と命令していたので自重していた。一月三日、
鳥羽ロの赤池に端を発した薩摩と大阪方との戦いは次第に拡大した。
はじめ土佐藩からは谷兎毛・福井勇ら一○○名が伏見巡羅隊として
長州藩兵とともに守謹にあたり、谷干城の率いる一大隊は総予備隊
として京都にいたが、慶応三年の年末以来、山田喜久馬(平左衛
門)、吉松速之助の率いる各小隊が伏見方面を警備し、翌年一月三
日渋谷伝之助・松下意興の小隊が交替のため来陣し、棚重の二川元
助、大斥候の山地忠七の小隊および北村重兵衛の砲兵隊も到着した。
彼らは板垣退助と気脈を通ずる武力討幕派の人たちであった。その
ため、戦端が開かれると、容堂の命令を無視して参戦したのである。
戦いは京都方の勝利に終ったが、四日には仁和寺宮純仁親王(小松
宮嘉彰親王)が征討総督となり、錦放・節刀を賜ったので、慶喜は
朝敵の汚名を冠せられることとなった。ここにおいて容堂の努力は
水泡に帰し、以後土佐藩兵は官軍として行動することとなる。

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