
理学博士・物理学者でもあり随筆家でもあった寺田寅彦は高知市東久万に眠る。

寺田寅彦の生まれは東京だが幼時に大川筋に帰る。第五高等学校で漱石に英
語と俳句をまなび、東京大学に行く時代に正岡子規を識る。大学院で実験物理学
を研究する一方ホトトギスに写生文を発表。東大講師・助教授を経て留学帰朝後
教授になる。理学博士、物理学者で(天災は忘れられたる頃来る)の警句は有
名。寅彦の研究と興味は広凡で物理学の全分野にわたり論文は250篇に達し
ている。随筆・俳句の他、多芸・多趣味であった。
以上 土佐史談会発行の)土佐の墓)より
寺田寅彦の父 利正は文久元年永福寺門前の「井口事件」があった時、親戚に
依頼され少年宇賀喜久馬の介錯をし、また、利正は後に陸軍会計官として
西南戦争にも従軍しています。
以上 前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」

寅彦は妻に恵まれず 手前の紳は3番目の妻、昭和33年72才で亡くなり。
その隣が2番目の妻 寛子で大正6年31才で亡くなり。その隣が最初の妻
夏子で明治35年20歳で亡くなってます。

寺田寅彦墓誌


動画
ここに寺田寅彦の墓入り口 ここから300mの標識

寺田寅彦の生まれは東京だが幼時に大川筋に帰る。第五高等学校で漱石に英
語と俳句をまなび、東京大学に行く時代に正岡子規を識る。大学院で実験物理学
を研究する一方ホトトギスに写生文を発表。東大講師・助教授を経て留学帰朝後
教授になる。理学博士、物理学者で(天災は忘れられたる頃来る)の警句は有
名。寅彦の研究と興味は広凡で物理学の全分野にわたり論文は250篇に達し
ている。随筆・俳句の他、多芸・多趣味であった。
以上 土佐史談会発行の)土佐の墓)より
寺田寅彦の父 利正は文久元年永福寺門前の「井口事件」があった時、親戚に
依頼され少年宇賀喜久馬の介錯をし、また、利正は後に陸軍会計官として
西南戦争にも従軍しています。
以上 前田秀徳著「龍馬からのメッセージ」

寅彦は妻に恵まれず 手前の紳は3番目の妻、昭和33年72才で亡くなり。
その隣が2番目の妻 寛子で大正6年31才で亡くなり。その隣が最初の妻
夏子で明治35年20歳で亡くなってます。

寺田寅彦墓誌


動画
ここに寺田寅彦の墓入り口 ここから300mの標識
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