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小津高校の前身 海南学校の初代校長 吉田数馬 

龍馬を敬慕し龍馬に気に入られた吉田数馬は十市に生まれ後に現土居町に住み生涯を終えた
吉田数馬説明

👇丸く一目で解る変わった形の墓は一部欠けている。
戊辰東征に従い新留守居組になった。維新後に征韓論で下野し帰郷し、山地元治
北村重頼らと相談して、山内豊範に海南私塾を東京に設立させた。明治9年高知に
分校(後の海南中学・現小津高校)が開設され、山内家相談役谷干城の信任厚い
数馬が初代校長に任命された。教育者で全国初の藍綬勲章を受けた。
20-10-18吉田数馬墓

👇筆山トンネル上 野中兼山の墓の上の横道から見上げると丸い変わった形の墓が見える。
20-10-18吉田数馬墓2

 墓石に書かれた文字は今は読めんですが
 土佐史談会発行の(土佐の墓)から引用
嗚呼人も死すべき時に死せざれば死にまさる恥ありとかや
野夫も本年齢已に六十に達しつくづく往時を回顧すれば所謂
死すべき時もありつれど機を誤りて生きながらへ、永らく海南
学校のお世話致し居りしも、之亦何の貢献する所もなく、遂に
老齢を以て今般御辞退仕る爰に同校出身の諸士は、野夫が
年来の勤労を多とし、金員及銅像等を恵与せられ、実に慚愧
赤面之至りに候。志かれ共又、折角諸士の野夫之老懐を慰せ
んとの此の美挙を敢えて御辞退申すも、却って礼にあらざるべ
しと仍て其の贈与せられたる銅像は、永く家に蔵し、金員は以
て野夫夫妻の壽碑を作り、藹然たる諸士の芳情を永く子孫に
伝へ度、自ら愚衷を碑面に勒し、之を表する事如此候也。
   明治四十年一月           加壽万しるす

👇動画


高知県立高知小津高等学校の沿革

凄いデーター 土佐の歴史散歩
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