
藩主の奥御殿(二ノ丸)の居間の前に今も残る池畔に寛永九年(1633年)八幡宮が
あった。高知城築城記によると、、(二ノ丸の地の南の方に少き池あり、往昔八幡宮
此に鎮座ありしとて、八幡池と稱すと) と言うことは高知八幡宮は、大高坂氏が居城の
時は大高坂城の本丸にあったが山内氏入国時、天守御殿を建てるにあたり二ノ丸の
この場所に移り、さらに現在の城内鎮座神社跡に移り、明治初めの版籍奉還により、
明治四年に現在の山田町に落ち着き、現在の高知八幡宮と呼ばれるようになった。

👇二ノ丸築山 八幡池 城内神社跡の場所

👇二ノ丸西より八幡池、前方に廊下門、天守が見える。左(北に二ノ丸御殿があった)
おそらく八幡宮が池の傍にあったので八幡池と呼ばれたと推測するも詳しい場所まで
は絵図にも載ってないが、三度場所が変わったことになる。鐘撞堂も三度移動している。

👇現地にある説明板には八幡池と言う名前だったと言う説明は無い

👇動物園があった場所の北下が城内神社跡

八幡池の由縁はこれ以上の詳細はこれからも調査中です。
あった。高知城築城記によると、、(二ノ丸の地の南の方に少き池あり、往昔八幡宮
此に鎮座ありしとて、八幡池と稱すと) と言うことは高知八幡宮は、大高坂氏が居城の
時は大高坂城の本丸にあったが山内氏入国時、天守御殿を建てるにあたり二ノ丸の
この場所に移り、さらに現在の城内鎮座神社跡に移り、明治初めの版籍奉還により、
明治四年に現在の山田町に落ち着き、現在の高知八幡宮と呼ばれるようになった。

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おそらく八幡宮が池の傍にあったので八幡池と呼ばれたと推測するも詳しい場所まで
は絵図にも載ってないが、三度場所が変わったことになる。鐘撞堂も三度移動している。

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