fc2ブログ

高知の面白情報・今昔・夜景・等々

高知城国宝化運動 土佐の歴史 高知の夜景、面白、巨木・滝・四季の様子などを画像で紹介

山内容堂が大政奉還後迷った挙句、板垣退助の思うつぼ 土佐藩は朝廷側に付いた

👇大政奉還の数ケ月後、徳川と薩摩が京都において鳥羽伏見の戦いを始めた。
どちらに着くか迷っていた容堂公は(戦いは徳川と薩摩の戦いとして土佐藩には
禁止令を出していた)が、小隊長の山田平左衛門と北村重頼(砲兵隊長)らは山
内容堂の禁止令を無視して参戦、前年の龍馬と西郷が結んだ薩土盟約より数ケ
月早く慶応3年5月21日西郷隆盛と乾(板垣)退助が結んだ薩土密約(両藩が武力
で幕府を倒す)の約束通りとなった。板垣退助の働きで結果的に土佐の地は徳川
からも何処からも戦争に巻き込まれず昭和の時代まで平和な土地じゃったがです
慶応4年1月4日鳥羽伏見の戦い

👇会津戦争のあと江戸に寄り 撮った写真・前列中央が板垣退助・二列目右から
二人目が山田(土居)平左衛門・その左マフラーをした谷干城 後列右から二人
目が北村重頼 後列左端が片岡健吉
写真は土佐史談(維新殉難志士特集号)表紙
スクリーンショット 2024-02-08 215544

👇土居(山田)平左衛門が眠る筆山(野中兼山墓所のすぐ上)のお墓
平左衛門は名清廉、土居氏を称す。武弁をもって知られ、板垣退助の
討幕運動に参加、小隊司令として切腹覚悟で伏見の戦いに参加し、
東征にも従った。その後戊辰戦争に従軍し武勲を上げ、明治10年の
西南戦争の折、挙兵を陰謀した為 禁獄1年の刑を受けた。出獄後2代目
立志社社長になり自由民権運動を主導、第五回総選挙で衆議院議員に
当選、ついで土陽新聞社長に推された。高知教会の長老で晩年は土居
姓を称した。墓は筆山の南東中腹、野中兼山のお墓の上方にある。
明治39年62才で没 以上土佐史談会発行 土佐の墓より


👇北村重頼は通称長兵衛。父は潮江村,馬廻り二百石。慶応四年
1月4日鳥羽伏見の戦いが始まると山田平左衛門(小隊長)と北村重頼
(砲兵隊長)らは山内容堂の禁止令を無視して参戦、勝利を得、土佐藩
を朝廷側に立たせ錦旗下賜させた。東征して帰国後武功によって四百
石中老となった。維新後征韓論起きるや現地視察に行ったが、論破れて
下野、ついで谷干城の推挙で大阪鎮台参謀となった。明治十年西南の
役当時は佐々木高行と共に帰国し、立志社の挙兵を未然に抑えた。
以上土佐史談の土佐の墓より。
墓は筆山から高見山に行く途中 武市兄弟(岩倉具視暗殺未遂)の
お墓のすぐ南西約50mにあるが 途中荒れて探すのは大変やった。



関連記事

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する